年間第2主日・B年(2021.1.17)  

「わたしたちはメシアに出会った」

 

主よ、お話しください 僕 (しもべ)は聞いております(サムエル記上3.9参照)

  早速、今日の第1朗読ですが、旧約聖書の歴史書に属するサムエル記上の3章からの抜粋であります。

 このサムエル記ですが、上下に分けられていますが、もともとは単一の著作であり、イスラエルの歴史における王国の始まり、すなわち士師時代の終わりから統一王国の確立の時代つまり、紀元前11世紀半ばから紀元前10世紀にかけての時代の歴史書であります。それは、紀元前6世紀のバビロン捕囚時代に編集されたと考えられます。

 今日の朗読箇所に登場するサムエル少年ですが、その母ハンナが神殿で涙ながらに祈って授かった男の子で、彼女の誓いどおり乳離れしたときに神殿に仕える祭司エリのもとに預けられたのです。

 ですから、今日の場面は、サムエルが、寝室ではなく神の箱が安置されている神殿で寝ていたときの神体験にほかなりません。

 「主はサムエルを呼ばれた。サムエルは、『ここにいます』と答えて、エリのもとに走って行き、『お呼びになったので参りました』と言った。しかし、エリが、『わたしは呼んでいない。戻っておやすみ』と言ったので、サムエルは戻って寝た。」のです。

 それから、さらに二回にわたって同じように、神は、名指しでサムエルを呼ばれたのです。

 「『お呼びになったので参りました』と言った。エリは、少年を呼ばれたのは主であると悟り、サムエルに言った。『戻って寝なさい。もしまた呼びかけられたら、『主よ、お話しください。僕(しもべ)は聞いております』と言いなさい。』と。

  さすがに、祭司のエリは、サムエルを名指しで呼んでおられるのは、神にほかならないと悟ったのです。つまり、わたしたちにとって神体験とは、まさに神のことばを心の奥深くで聞くという体験にほかなりません。

 ですから、たとえば申命記(しんめいき)では、家庭における子供の信仰教育の基本を次のように命じております。

 「わたしが今日あなたに命じるこれらのことばを心にとどめなさい。

 これをあなたの子どもたちによく教え込みなさい。

 あなたが家で座っているときも道を歩くときも、寝るときも起きるときも、これを彼らに語りなさい。」(申命記6.6-7参照)と。

 近年、日本を含む伝統的なヨーロッパのキリスト教諸国において次世代に信仰が十分に伝達されていないという深刻な問題の根本原因は、すでにモーセの時代に確立していた、家庭における子供たちへの聖書教育を怠ったことにあるのではないでしょうか。

 

わたしたちはメシアにであった(ヨハネ1.41参照)

  次に今日の福音を振り返ってみましょう。

 今日の朗読箇所は、ヨハネによる福音書1章の35節からの抜粋でありますが、実は、この福音書は恐らくヨハネ共同体の無名の人物が1世紀末に編集したと考えられます。

 ちなみに今日の箇所は、洗礼者ヨハネの証を伝える段落で洗礼者ヨハネの二人の弟子が初めてイエスに出会ったエピソードを、感動的に伝えている場面であります。

 「ヨハネは二人の弟子と一緒にいた。そして、歩いておられるイエスを見つめて、『見よ、神の小羊だ』と言った。

   二人の弟子はそれを聞いて、イエスに従った。イエスは振り返り、彼らが従って来るのを見て、『何を求めているのか』と言われた。彼らが、『ラビ―『先生』と言う意味―どこに泊まっておられるのですか』と言うと、イエスは、『来なさい。そうすれば分かる』と言われた。そこで、彼らはついて行って、どこにイエスが泊まっておられるかを見た。そしてその日は、イエスのもとに泊まった。午後四時ごろのことである。」と。

 とにかく、これら二人の弟子つまり、シモン・ペトロの兄弟アンドレともう一人の弟子ですが、彼らが、まず、洗礼者ヨハネが、彼らに「見よ、神の小羊だ」と言ったのを、聞いたので、イエスに従うことができたのです。つまり、イエスを指し示す言葉がけが必要なのです。

 ですから、福音記者ヨハネは、「ヨハネのことばを聞いてイエスに従った二人」と、念を押しています。

 つまり、誰でもイエスに出会うためには、イエスを紹介する言葉がけが必要なのです。それが、まさに信仰教育の原点ではないでしょうか。

 ですから、使徒パウロは、み言葉の伝達の仕組みを、次のように説明してくれます。

 「『主の名を呼び求める者はだれでも救われる』(ヨエル2.32.参照)のです。

 ところで、信じたことのない方を、どうして呼び求められよう。聞いたことのない方を、どうして信じられよう。

 また、宣(の)べ伝える人がいなければ、どうして聞くことができよう。

   遣(つか)わされないで、どうして宣べ伝えることができよう。・・・

 実(じつ)に、信仰は聞くことにより、しかも、キリストのことばを聞くことによって始まるのです。」(ローマ10.13-17参照)と。

 従って、このみ言葉の伝達の基本的な仕組みこそが、子ども、若者そして大人のための信仰教育の原点と言えるのではないでしょうか。

 ところで、福音記者ヨハネは、次のように二人の行動を確認します。

「そこで、彼らはついて行って、どこにイエスが泊まっておられるかを見た。そしてその日は、イエスのもとに泊まった。午後四時ごろのことである。」と、その時刻までも確認しています。

 つまり、イエスとの出会いは、ことばを聞くだけでなく、まさにイエスにつながる、すなわちイエスのもとに留まることが肝心なのではないでしょうか。

 このイエスとの密接なつながりについては、最後の晩餐の席での最後の説教において次のように強調されました。

「わたしの話した言葉によって、あなたがたは既に清くなっている。わたしにつながっていなさい。わたしもあなたがたにつながっている。ぶどうの枝が、木につながっていなければ、自分では実を結ぶことができないように、あなたがたも、わたしにつながっていなければ実を結ぶことができない。・・・人がわたしにつながっており、わたしもその人につながっていれば。その人は豊かに実を結ぶ。わたしを離れては、あなたがたは何もできないからである。・・・あなたがたがわたしにつながっており、わたしの言葉があなたがたの内にいつもあるならば、望むものを何でも願いなさい。・・・」(同上15.3-7参照)と。

 わたしたちの一回限りの人生が、日々、イエスの言葉に聞き従うことによって豊かに全うできるように共に祈りましょう。

 

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