主の公現(2021.1.3)

「王たちは射し出でるその輝きに向かって歩む」

あなたを照らす光は昇り、主の栄光はあなたの上に輝く(イザヤ60.1参照)

   まず、初めに今日(きょう)の祭日の由来を、振り返って見ましょう。

 実は、西方教会では、今日のマタイ福音書に基づいて東方の占星術(せんせいじゅつ)の学者たちが、新しい王の誕生を象徴する天体の現象に導かれてエルサレムにたどりつき救い主の生まれた場所を確認し、そこで贈り物をささげて礼拝したことを、記念する祭日として祝ったことに始まります。

 ですから、四世紀後半になると、すでに、ローマでは、1月6日に占星術の学者たちの礼拝を祝うようになったのです。

 ちなみに、この学者たちの人数ですが、三つの贈り物から三人に定められ、後(のち)に彼らは王とされ、名前はバルタザール、メルキオール、カスパールとなり、なんと1164年7月23日には、彼らのものとされる聖遺物(せいいぶつ)がイタリアのミラノからドイツのケルンに移され、大聖堂の豪華なケースに収められております。

 ですから、今日(こんにち)に至るまで、ケルンの大聖堂はその巡礼の聖堂となっております。

 それでは、まず、今日(きょう)に第一朗読を振り返って見ましょう。

 今日(きょう)の朗読箇所は、第三イザヤと呼ばれる無名の預言者が、紀元前6世紀ごろ、捕囚地(ほしゅうち)バビロンから故国にようやく帰って来たイスラエルの人々に向かって預言したのです。なぜなら、彼らに約束されていた神の栄光が全く現れそうもないという状況に追い込まれ、結果的に神に対する信頼が弱まり、各々が自分勝手な生き方に陥っていたからにほかなりません。

 ですから、第三イザヤは、次のようにイスラエルに栄光と救いが到来することを、預言をしなければなりませんでした。

 「あなたを照らす光は昇り、主の栄光はあなたの上に輝く。

 ・・・

  あなたの上には主が輝き出で

  主の栄光があなたの上に現れる。

  国々はあなたを照らす光に向かい

  王たちは射し出でるその光に向かって歩む。」と。

 次に、今日(きょう)の福音の場面を、彷彿(ほうふつ)とさせるような預言が続きます。

 「シェバの人々は皆、黄金と乳香を携えて来る。こうして、主の栄誉(えいよ)が宣(の)べ伝えられる。」と。

 このように、シオンへの諸国の流れによって、同時にイスラエルに現れる救いが実現すると言うのです。ちなみに、「黄金(おうごん)と乳香」は、当時、最も高級な贈物(おくりもの)であったようです。

 

異邦人が福音によって約束されたものを受け継ぐ(エフェソ3.6参照)

  次に今日の第二朗読ですが、使徒パウロ自身が書いたのではなく、恐らく彼の弟子の一人が、各教会で回覧できるような教えにまとめたのではないでしょうか。とにかく、使徒パウロの偉大な働きによって、ユダヤ人以外の異邦人にまで救いが広がっていくことを次のように強調しております。

 「すなわち、異邦人が福音によってキリスト・イエスにおいて、約束されたものをわたしたちと一緒に受け継ぐ者、同じ約束に与る者となるということです。」と。                      ですから、今日の福音が報告している東方の占星術の学者たちも、割礼を受けていない異邦人にほかなりません。しかも、星の導きによって、彼らが、生まれたばかりの救い主イエスを礼拝したということは、イエスがもたらす救いは、本来的にすべての民族に広がっていくことを、象徴的に先取りした出来事と言えましょう。したがって、この手紙の冒頭においては、キリストにおける壮大(そうだい)な救いの完成を、次のように描いております。

 すなわち、「神は、わたしたちを、あらゆる知恵と分別(ふんべつ)の恵みで溢れるばかりに満たし、み旨の神秘を悟らせてくださいました。それは、時が満ちて、キリストにおいて実現されるようにと、あらかじめ計画しておられ、そのみ旨に従ってのことです。その神秘とは、天にあるもの、地にあるもの、すべてのものを、キリストを頭(かしら)として一つに結び合わせるということです。」(同上1.8-10参照)と。

 

彼らはひれ伏して幼子を拝み贈り物を献げた(マタイ2.11参照)

 それでは、今日の福音を振り返って見ましょう。

 ここで、まず、マタイは、イエスが誕生したときのユダヤの王の名前を知らせます。つまりヘロデ大王とも呼ばれた在位紀元前37年から4年までパレスチナとその隣接地域を治めた王で、紀元前37年には、エルサレムを陥落させ、まさにユダヤの王として君臨した王で、賢明で才能もあったのですが、非常に残忍(ざんにん)な行為をもあえてしたのであります。すなわち、幼子イエスを探し出し殺害しようとしたのですが、博士たちに欺かれたと知って、ベツレヘムとその地方一帯にいる二歳以下の男の子をことごとく殺させたのです(マタイ2.13-16参照)。続いて、マタイは次のように博士たちを登場させています。

 「そのとき、占星術の学者たちが東のほうからエルサレムに来て、言った。『ユダヤ人の王としてお生まれになった方は、どこにおられますか。わたしたちは東方でその方の星を見たので、拝みに来たのです。』これを聞いて、ヘロデ王は不安を抱(いだ)いた。エルサレムの人々も皆、同様であった。」と。

 東の国に住む占星術の学者たちは、「ユダヤ人の王」の誕生を知らせる「星」を発見したのです。つまり、異邦人にも救いをもたらす救い主の幼子です。夜空に輝くその星こそは、生まれたばかりの幼子(おさなご)が、まさに全人類の救い主であることを美しく表しているのではないでしょうか。

 それにして、王だけでなく、どうして「エルサレムの人々も皆、不安を抱いた。」のでしょか。ヘロデ王にとって、新しい王の誕生は、まさに自分の王としての地位が脅かされるのではないかと恐れたのでしょう。では、エルサレムの人々までもが、なぜ不安を抱いたのでしょうか。それは、おそらく王の不安と恐れがエルサレムの住民全体にも及んだのではないでしょうか。

 とにかく「王は民の祭司長たちを皆集めて、メシアはどこに生まれることになっているのかと問いただした。」のです。彼らは、イザヤ預言者と同時代の預言者ミカの預言(5.1参照)を引用して、それはダビデの町であるベツレヘムであると説明します。ところが「行って、その子のことを詳しく調べ、見つかったら知らせてくれ。わたしも行って拝もう」と心にもないことを言って「『ヘロデの所へ帰るな』と夢でお告げがあってので、学者たちは、別の道を通って自分たちの国に帰っていった。」のです。

 ところで、この「別の道を通って」を、幼子イエスに出会い礼拝することによって、学者たちはメシアが示す新しい道に向かって歩み始めたという解釈も可能です。

 ですから、わたしたちもイエスを礼拝することによって、新たな回心の道を歩き始めることができるのか、問われているのではないでしょうか。アーメン。

 

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