聖家族の祝日・B年(2020.12.27)

「幼子はたくましく育ち、知恵に満ち 神の恵みに包まれていた」

 

アブラムは主を信じた(創世記15.6参照)

    早速、今日の第一朗読を振り返って見ましょう。

 今日の朗読箇所は、創世記の15章と21章からの抜粋であります。

実は、アブラハムですが、この段階では、改名前のアブラムとして登場します。

 しかも、アブラハムの信仰の原点ともいうべきエピソードが語られています。まず場面は、主なる神のことばが幻の中で臨んだことから始まります。

 さらにここでは、神はヴィジョン(幻)つまり視覚に訴える神秘的なイメージによって語りかけておられます。

 「恐れるな、アブラムよ。わたしはあなたの盾である。

  あなたの受ける報いは非常に大きいであろう。」と。

 まさに、神の御加護を、敵の武器を防ぐ「盾(たて)」というイメージが用いられています。

 次に、いきなり「あなたの報いは非常に大きいであろう。」と、宣言なさいます。実は、すでに「あなたの子孫を大地の砂のようにする。大地の砂粒が数えきれないように、あなたの子孫も数えきれないであろう。」(創世記13.16参照)と約束なさったにもかかわらず、まだ一人も子どもを授かっていませんでした。ですから、アブラムは、次のように問い返します。

「わたしに何を与えてくださるというのですか。わたしには子どもがありません。家を継ぐのはダマスコのエリエゼルです。」と反論し、さらに主張します。「御覧のとおり、あなたはわたしに子孫を与えてくださいませんでしたから、家の僕が跡を継ぐことになっています。」と。

 その時です、再び神が優しく語りかけて下さいます。

 「その者があなたの跡を継ぐのではなく、あなたから生まれる者が跡を継ぐ。」と。ここで言われている「あなたから生まれる者」とは、「実(じつ)の子」を意味します。

 ここで神は、アブラムに、さらに根本的な回心を迫ります。

即(すなわ)ち、「主は彼を外に連れ出して言われた。『天を仰いで、星を数えることが出来るなら、数えてみるがよい。』」

 つまり、神は、アブラムが、自我という蛸壺(たこつぼ)から出て、神に心を向けるように命じたと言えましょう。

 ですから、そこでアブラムは、神から大変ありがたいお言葉をいただくことができたのです。「あなたの子孫はこのようになる。(つまり、数えきれないほどの子孫を必ず授けていただけるというのであります。)」

 そこで、アブラムは、乙女マリアのように(ルカ1.38参照)、主のお言葉をそのまま受け入れた、つまり、「主を信じた」のであります。

 ですから、「主はそれを彼の義と認められた。」のであります。つまり、本来あるべき神との関係が成立したと言えましょう。

 ちなみに、今日(きょう)の第二朗読において、アブラハムの信仰体験が、さらに具体的に妻のサラを含めて次のように説明されています。

 「信仰によって、不妊(ふにん)の女(おんな)サラ自身も、年齢が盛(さか)りを過ぎていたのに子をもうける力を得ました。約束なさった方(かた)は真実な方(かた)であると信じたからです。それで、死んだと同様の一人の人から空の星のように、また海辺(うみべ)の数えきれない砂のように、多くの子孫が生まれたのです。」と。

 

幼子はたくましく育ち知恵に満(み)ち神の恵みに包まれていた(ルカ2.40参照)

  それでは、次に今日の福音を振り返って見ましょう。

 今日の箇所は、ルカの文体が色濃く出ているエピソードと言えましょう。

 まず、22節で言われている「清めの期間」ですが、いったい誰の清めなのか、しかもそれが神殿奉献とどのような関係にあるのでしょうか。

 この「清め」は、母マリアの清めにほかなりません。つまり、産後の母の清め(レビ記12.2-8参照)と、ナジル人としてのイエスの清めと聖別(民数記6.8-10参照)をも同時に考えられます。

 そして、双方とも神殿奉献をともないます(レビ記12.6-7;民数記8-10参照)

 次に、聖霊がとどまっていた老人の預言者シメオンは、神殿で「幼子を腕に抱き、神をほめたたえて言った。『主よ、今こそあなたは、おことばどおり、この僕(しもべ)を安らかに去らせてくださいます。わたしは、この目であなたの救いを見たからです。これは万民のために整えてくださった救いで、異邦人を照らす啓示(けいじ)の光、あなたの民イスラエルの誉(ほま)れです。』と。」

 とにかく、預言者の霊としての聖霊が、救いの完成(パルーシア)の時に、多くの人々に授けられる霊であります(ヨエル3.1-5参照)。

 そしてこのイスラエルの慰めの具体化は、シメオンが「イスラエルの誉れ」である救い主を見ることにほかなりません。

 また、このシメオンの賛歌は、民族宗教の祈りで始まって異邦人の救いをも含むまさにカトリック精神に発展させているのではないでしょうか。ここで言われている「啓示」ですが、隠された神のことを開き顕(あらわ)すことと言えましょう。とにかく、シメオンの賛歌は、旧約に登場するナジル人の清めの式の最後の祝福が、台本になっています。

 続いて、シメオンが、特にマリアに言います。「この子は、イスラエルの多くの人が倒れたり立ち上ったりするために定められ、また、反対を受けるしるしとして定められています。―あなた自身も剣(つるぎ)で指し貫かれます。―多くの人の心にある思いがあらわにされるためです。」と。

 まさに、イエスはイスラエルへの警告のしるし、イスラエルから反対を受けるしるしにほかなりません。そして、このイエスの運命に母も参加するよう神から定められているのです。

 次に、聖家族がナザレに帰ってからの様子が、イエスの誕生物語全体の締めくくりとなっています。そして、「幼子はたくましく育ち、知恵に満ち、神の恵みに包まれていた。」と、イエスを育てた聖家族の使命を総括しております。

 これこそ、キリスト者のすべての家庭における子育ての目標ではないでしょうか。今日(こんにち)、特に子どもたちを、一人前のキリスト者に育てあげるのは決してやさしいことではないでしょうが、特にモーセの時代から実行しているみ言葉教育を土台に、たくましく育て、信仰の知恵に満たされるという神の恵みに包まれる子供たちを育てることこそ、キリスト者の親たちの神からいただいた尊い使命ではないでしょうか。

 そのために、まさに聖家族に学ぶことは何か、親子ともども真剣に話し合うことを、お勧めして今日の説教を終ります。アーメン。

 

 

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