「み言葉は人間となり われわれの間に住むようになった」
地の果てまですべての人がわたしたちの神の救いを仰ぐ(イザヤ52.2参照)
昨晩、わたしたちは全世界の善意の人々と共に、救い主イエスの降誕を祝いました。
そして、今日(きょう)また改めてイエスがわたしたちの只中に来てくださったことの素晴らしい神秘を、深く味わうことができるよう今日の聖書朗読箇所を振り返ってみましょう。
では、まず、今日の第一朗読ですが、便宜上第二イザヤと呼ばれる無名の預言者の紀元前6世紀ごろの預言に耳を傾けてみましょう。
第二イザヤは、捕囚地バビロンで、試練の日々を耐えている捕囚民に向かって、まもなく故国に帰ることができるという、まさに希望と慰めのメッセージを、次のように伝えていたのであります。
「いかに美しいことか
山々を行き巡り、良い知らせを伝える者の足は。
彼は平和を告げ、恵みの良い知らせを伝え
救いを告げ
あなたの神は王となられた、と
シオンに向かって呼ばわる。
・・・
主はその民を慰め、エルサレムを贖(あがな)われた。
・・・
地の果てまで、すべての人が
わたしたちの神の救いを仰ぐ。」と。
まず、ここで言われている「良い知らせ」ですが、新約では「福音」と言われるキーワードにほかりません。ちなみに、福音書という文学形式は、福音記者マルコがあみだした文学類型です。しかも、マルコは、その福音書の冒頭で、次のように説明しています。
「神の子イエス・キリストの福音の初め。」と、すなわち「神の子イエス・キリスト子こそ福音である。」と。
ですから、降誕祭は、全世界の人々と共に「福音であるイエス・キリスト」の誕生を祝うことと言えましょう。
したがって、この「福音」は、すでに第二イザヤによって捕囚民に告げ知らされたというメシア預言として受け止めることができます。
み言葉を受け入れた者、その名を信じる者には、神の子となる資格を与えた(ヨハネ1.12参照)
それでは、次に今日の福音を、振り返って見ましょう。
今日の朗読箇所は、ヨハネ福音記者が編集したと考えられる福音書の冒頭の1章1節から18節までの福音全体にかかわる序文で、ヨハネ文書に編集される前に、すでに初代教会で「ロゴス(言葉)賛歌」として、歌われていたようです。とにかく、フランシスコ聖書研究所訳のほうが分かり易いので、それに切り替えると次のようになります。
まず1章1節から18節までが、次のような神学的序文と言えましょう。
「1.1初めにみ言葉があった。
み言葉は神とともにあった。
み言葉は神であった。
2み言葉は初めに神とともにあった。
3すべてのものは、み言葉によってできた。
できたもので、み言葉によらずにできたものは、
何一つなかった。
4み言葉の内に命があった。
この命は人間の光であった。
5光は闇の中で輝いている。
闇は光に打ち勝たなかった。」
ちなみに、創世記の冒頭も、「初めに」となっていますが、それは根源と時間の初めを表す言い回しです。ここでは、創造者である「み言葉」の地位を意図的に示していると言えましょう。つまり、万物が創られたとき、主なる神と共にすでに存在していた「み言葉」は、神の独り子であるキリスト、神の啓示者、さらに啓示そのものであるキリストを指しています。
しかもみ言葉のうちに造られたものは、命にほかなりません。ですから、存在し続け成長し続ける生命力をも、み言葉からいただいているのです。
ここで言われている「闇」ですが、旧約聖書では「死」との関連で用いられますが、ここではキリストをわざと受け入れない人々を指しています。
「10み言葉はこの世にあった。
この世はみ言葉によってできたが、
この世はみ言葉を認めなかった。
11み言葉は自分の民の所に来たが、
民は受け入れなかった。
12けれども、み言葉を受け入れた者、
その名を信じる者には、
神の子となる資格を与えた。
13彼らは、血によってではなく、
人間の意志によってでも、
男の意志によってでもなく、
神によって生まれた。
14み言葉は人間となり、
われわれの間に住むようになった。
われわれはこの方の栄光を見た。
父のもとから来た独り子としての栄光である。
独り子は恵みと真理に満ちていた。」
ここで言われている「神の子」ですが、キリストを信じる人は、父(神)と真(しん)に親しい関係に入ることができます。しかもこの関係は永続的なもので、特に父を子との関係になります。とにかく、父は、キリストによって人間に神の子となる資格を下さるのです。ここで言われている「血」ですが、血による人間の誕生という古代の考え方に基づくと言えます。また、14節の「人間となり」は、共同訳のように直訳では「肉」となり、死すべき人間を指します。また、「住むようになった」は、直訳では「天幕を張った」、共同訳では「宿られた」ですが、主なる神は、かつてイスラエルの民に幕屋を建てさせ、そこに住まわれたのです。
とにかく、この偉大な神秘を今では、「受肉の神秘」と言いますが、わたしたちのために生まれたてくださった救い主イエスを、どのようにわたしたちの只中に御迎えできるのかは、まさにキリスト者に与えられた中心的課題ではないでしょうか。
日々、救い主イエスと共に生かされている実感が持てるよう祈りましょう。
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