「今日、あなた方のために救い主が お生まれになった」
平和は絶えることがない(イザヤ9.6参照)
それでは、早速、今日の第一朗読箇所について振り返ってみましょう。
それは、メシア預言者イザヤが、紀元前728年に行われたユダ王国の王ヒゼキア王(728-698BC)の即位を祝ってのべた祝辞と言えましょう。つまり、王子ヒゼキアが、二十歳の若年で王に即位することによって、北イスラエルの失われた地域が再び故国に回復するという預言、つまり、時の軍事大国アッシリアが神によって直接裁かれ、打ち破られることを告げたのであります。
ですから、今日の箇所で次のように預言されるのです。
「闇の中を歩む民(たみ)は、大いなる光を見、
死の影の地に住む者の上に、光が輝いた。
・・・
刈り入れの時を祝うように
戦利品を分け合って楽しむように。
彼らの負う軛(くびき)、肩を打つ杖、虐(しいた)げる者の鞭(むち)を
あなたはミディアンの日のように折(お)ってくださった。」
ここで言われている「ミディアンの日のように」とは、士師の時代(BC1200-1050年ごろ)に士師ギデオンが、ミディアン人の支配から解放したように、今、なんと神によって強国アッシリアが打ち破られると言うのです。
次に、メシア預言の核心に、次のよう触れます。
「ひとりの嬰児(みどりご)がわたしたちのために生まれた。
ひとりの男の子がわたしたちに与えられた。
権威が彼の肩(かた)にある。
その名は、『驚くべき指導者(しどうしゃ),力ある神
永遠の父、平和の君(きみ)』と唱えられる。
ダビデの王座とその王国に権威は増し
平和は絶えることがない。」
このくだりこそ、まさに飼い葉(かいば)に寝かされている赤ん坊のイエスを、間接的に預言していると言えましょう。
皇帝アウグストゥスから勅令が出た(ルカ2.1参照)
それでは、次に今日の福音を、振り返って見ましょう。
実は、福音記者の中で、ルカだけが、イエスの降誕の次第を次のように詳しく報告しています。
「そのころ、皇帝アウグストゥスから全領土の住民に、登録せよとの勅令が出た。・・・人々は皆、登録するためにおのおの自分の町へ旅立った。ヨゼフもダビデの家(いえ)に属し、その血筋であったので、ガリラヤの町ナザレから、ユダヤのベツレヘムというダビデの町へ上(のぼ)って行った。」と。
ここで早速、ルカはローマ皇帝アウグストゥスを登場させることによって、イエスの誕生を政治の枠組みに挿入し、帝国の舞台に置く準備をします。ですから、当時、まさに世界最大の強者たるローマ皇帝は全世界に勅令を発することによって、知らずして神の救いの御計画に協力することになり、また、実は、この皇帝アウグストゥスは、「全世界の救い主」と呼ばれ、人々からは「アウグストゥスの平和」とも言われていたので、実は、彼の支配下において、生まれたイエスこそが、真(まこと)の救い主であることが暗示されたと言えましょう。
次に、ルカは、イエスの誕生の次第を次のように単刀直入に、報告します。
「ところが、彼らがベツレヘムにいるうちに、マリアは月が満ちて、初めての子を産み、産着(うぶぎ)を着せて飼い葉桶に寝かせた。宿屋には彼らの泊まる場所がなかったからである。」と。
おそらく、当時の庶民が泊まる宿には、同じ屋根の下に、人が泊まる部屋と、家畜を休ませる場所が併設されていたのではないでしょうか。とにかく馬小屋ではなかったことは確かです。
地には平和御心に適う人にあれ(ルカ2.14参照)
続いて、イエスの誕生を最初に知らされた羊飼いたちに注目してみましょう。
「その地方で羊飼いたちが野宿(のじゅく)しながら、夜通し羊の群れの番をしていた。すると、主の天使が近づき、主の栄光が回りを照らしたので、彼らは非常に恐れた。天使は言った。『恐れるな。わたしは、民全体に与えられる大きな喜びを告げる。今日(きょう)ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになった。この方こそ主キリストである。あなたがたは、産着(うぶぎ)を着せられて飼い葉桶の中に寝ている乳飲み子を見つけるであろう。これがあなたがたへのしるしである。』」と。
ここで言われている「民全体に」ですが、まずイスラエル民族を指しますが、11節の表現が「救い主」としてローマ皇帝アウグストゥスの称号と比較(ひかく)されているので、「民全体」は、排他的にユダヤ民族に限定されません。
しかもここで言われている「今日(きょう)」ですが、救いの完成が現実となったことを表しています。
また、ここで「乳飲み子」が「しるしである。」と言われるのは、同じ福音書でいわれている「神の国は、見える形では来ない」(ルカ17.20参照)に相通じ、人の目には全く目立たない出来事を意味しているのでしょう。
続いて、「突然、この天使に天の大群が加わり、神を賛美して言った。
『いと高きところには栄光、神にあれ、
地には平和、御心に適う人にあれ。」と。
ここで最後に言われている「地には平和、御心に適う人」とは、神が望む人々、つまり神の気にいる人々に神の平和と救いが実現するという意味です。
ですから、マタイ福音書で言われている「平和を実現する人々は、幸いである、その人たちは神の子と呼ばれる。」(マタイ5.9参照)に見事につながるのではないでしょうか。
ちなみに、昨年の11月27日、訪日を終えてバチカンに戻られた教皇フランシスコは、サンピエトロ広場での一般謁見(えっけん)講話の最後に次ぎのように強調なさいました。
「東京では、天皇陛下のもとを訪れる機会を得、重ねて感謝の気持ちをお伝えして来ました。また、この国の要人や外交団ともお会いしました。わたしは、出会いと対話の文化を期待しています。それは、知恵と広い視野を特徴とします。その宗教的・倫理的価値観に忠実であり続けながら福音のメッセージに開かれている日本は、より正義と平和のある世界のため、また人間と自然環境との調和のため、主導的な国となれるでしょう。」と。
この教皇フランシスコの熱きご期待にお応えするために、私たちのために生まれてくださった主イエスと共に、世界平和実現のために働く決意を新たにしようではありませんか。アーメン。
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