年間第 29 主日・C 年[世界宣教の日](2013.10.20)

「みことばを宣べ伝えなさい」

教皇フランシスコからのメッセージ

 本日、「世界宣教の日」にあたり教皇フランシスコは、全世界の教会あてに次のような冒頭で始まるメッセージをくださいました。

 「親愛なる兄弟姉妹の皆様

  世界宣教の日を祝うこの時、主との友愛の絆を深め、勇気をもって福音をのべ伝える教会の旅を力づける大切な機会であるこの年、すなわち、『信仰年』は終わりを迎えようとしています。そこでわたしはいくつかのことを振り返ってみたいと思います。

 信仰は、神を知り、愛することができるようわたしたちの心を開かせる、神からのかけがえのない贈り物です。神はわたしたちとの関係に入り、わたしたちのいのちをもっと意味深く、良く、美しくするために、自らのいのちを分け与えることを望んでおられます。

 神はわたしたちを愛しておられるのです。

 しかし、信仰には、神の愛を生き、無限の恵みに感謝するために、一人ひとりがそれに、わたしたち自身を神に委ねる勇気が必要です。信仰はわずかな人々のためではなく、惜しみなく与えられている贈り物なのです。すべての人が、神に愛されるという喜び、救いの喜びを経験できるはずです。それは決して独り占めするようなものではなく、共に分かち合うものなのです。・・・福音をのべ伝えるということは、キリストの弟子であるということにすでに含まれていることであり、それは教会の全生命に生気を与える変わることのない責務なのです。・・・一人ひとり、そして共同体のレベルにおいて、他の人々に自分たちの信仰を伝え、愛の業(わざ)のうちにそれを広め、生き、わたしたちが出会い、いのちの道を共にする人々に証しする力をもって、信仰の強さを確かめることができるのです。・・・」

 

みことばをのべ伝えなさい

 今日の第二朗読ですが、パウロが晩年弟子のテモテに書き送った手紙の最後の箇所であります。ですから、最も大切な勧めを荘厳に次のように書き綴っています。

「神の御前(みまえ)で、そして、生きている者と死んだ者を裁くために来られるキリスト・イエスの御前で、その出現とその御国とを思いつつ、厳かに命じます。

 みことばをのべ伝えなさい。折りが良くても悪くても励みなさい。とがめ、戒め、励ましなさい。忍耐強く、十分に教えるのです。」

 これは、まさに、テモテ個人にだけでなく、いつの時代のキリスト者にも与えられているパウロの切なる勧めにほかなりません。

 ですから、第二ヴァティカン公会議後十年目の 1975 年 12 月 8 日に教皇パウロ六世は、『現代世界における福音化について』という使徒的勧告を発表なさいました。その中で、次のように強調しておられます。

「『わたしたちは、すべての人々に福音をのべ伝えることが教会の第一かつ本来の使命であることを、ここに再び確認したいと思います。』それは、今日、著しく変化しつつある社会では、命令かつ使命です。福音を伝えることは、実に教会自身の本性に深く根差した最も特有の恵みであり、召命です。教会は、まさに福音を宣べ伝えるために存在しています。」(14 項)

  ですから、ミサをささげる度ごとに、わたしたちはこの教会の使命を派遣の祝福によって確認しなければなりません。つまり、「行きましょう。主の福音を告げ知らせるために」です。

 では、わたしたちが福音を伝えることが出来るのは、なぜかということを確かめる必要があります。この福音宣教の基本的仕組みを、パウロは極めて明解に次のように書いています。

「『主の名を呼び求める者は、だれでも救われる』のです。

 ところで、信じたことのない方を、どうして呼び求められよう。聞いたことのない方を、どうして信じられよう。また、宣べ伝える人がなければ、どうして聞くことができよう。遣わされないで、どうして宣べ伝えることが出来よう。・・・実の信仰は、聞くことにより、しかも、キリストのことばを聞くことによって始まるのです。」(ローマ 10.13-17)

 わたしたちは、このミサによって、まず、それぞれの家庭に、また、地域に、そして職場に派遣されます。そこで、出会う人たちに、イエス・キリストを知らせるのです。パウロが言うように「折が良くても悪くても」福音を伝え続けるのです。

 教皇フランシスコは、次のようにメッセージを続けておられます。

 「それゆえ、洗礼を受けているのもかかわらず、自分自身、信仰から離れたライフスタイルを選んでいる人々も稀まれではないのです。ですから、彼らは『新しい福音宣教』を必要としています。これらに加え、イエス・キリストの福音は人類の大部分に、未だに届けられていないという事実があります。わたしたちは、生活のさまざまな分野に及ぶ危機の時代に生きています。それは、経済、財政、また食品の安全、環境の危機ばかりではなく、いのちの深い意味、またいのちを生き生きとさせる根本的な価値に関する危機です。・・・現在と未来への道の展望が不穏な雲によって脅かされているように見えるこのような複雑な状況において、どのような現実にあっても、キリストの福音、すなわち希望、和解、交わり、神の近さ、神の恵み、神の救いをのべ伝えるということが必要なのです。神の愛の力が、悪の暗闇に打ち勝ち、よい道へわたしたちを導いてくださると告げることです。・・・」

 

なくてはならない聖書

 最後に、もう一度、今日の第二朗読によって、わたしたちの福音宣教になくてはならない聖書の大切さを、確認したいと思います。パウロは、次のように強調しています。

「この書物は、キリスト・イエスへの信仰を通して救いに導く知恵を、あなたに与えることができます。聖書はすべて神の霊の導きの下に書かれ、人を教え、戒め、誤りを正し、義に導く訓練をするうえに有益です。こうして、神に仕える人は、どのような善い業をも行うことができるように、十分に整えられるのです。」

 初代教会において福音がどのように伝えられたのか、貴重な文献から引用したいと思います。

「使徒が去った後、教会は、彼らの死を嘆くかわりに彼らに倣った。・・・責任は教会全体にあった。回心は宣教を意味し、信仰は分かち合いを意味した。・・・すべての信者が、宣教の連帯責任のあることを自覚した。『信仰の芽は、個人の意志の自由な行動によって広がった。』・・・キリスト教は、次第に広がっていった。それは家族や職場や友人の網のなかに広がった。控えめな宣教は、『自由広場や市場において公になされず、音もなく、耳に低い声で交わす言葉によって家族の家庭の集まりの影で』行われた。・・・口から耳へ、妻から夫へ、奴隷から主人へ、主人から奴隷へ、靴屋から客へ、屋台店の秘密のなかで行われた新宗教とその宣伝を特徴づけるには、『伝染』といいう表現ほどぴったりするものはない。」(『初代キリスト教徒の日常生活』116-7 頁)