年間第 28 主日・C 年(2013.10.13)

「あなたの信仰が、あなたを救った」

ことばどおりに

 今日の第一朗読は、紀元前9世紀の前半、北のイスラエル王国で活躍した預言者エリアではなく、その弟子エリシャの言葉によって重い皮膚病が癒されたエピソードを伝えています。

 癒されたのは、アラム(現在のシリア)の軍司令官ナアマンでした。彼は、イスラエルから捕虜として連れてきた少女の勧めに従い、自分が苦しんでいる重い病気をいやしてもらうために、神の人エリシャの家にせっかくやって来たのですが、なんと、肝心のエリシャは、家から出て来ませんでした。そこで、エリシャは、姿を見せず、問診もせず、ただ使いの者をとおして、「ヨルダン川に行って七度(ななたび)身を洗いなさい。そうすれば、あなたの体は元に戻り、清くなります。」(列王記下 5.10)と宣言しただけでした。

 このことは、まさにエリシャをとおして語られる神のことばの力強さを強調していることに他なりません。つまり、奇跡を起こすには、神のことばだけで、人間的な行動や、しぐさは一切必要ないのです。けれども、このような神のことばに対する信仰がない、異邦人のナアマンは、激しく怒ってそこを去り、叫びます。「彼が自ら出て来て、わたしの前に立ち、彼の神、主の名を呼び、患部の上で手を動かし、皮膚病をいやしてくれると思ってた。・・・」

(同上 5.11)

 けれども、家来がナアマンをいさめます。「わが父よ、あの預言者が大変なことをあなたの命じたとしても、あなたはそのとおりになさったに違いありません。あの預言者は、『身を洗え、そうすれば清くなる』と言っただけではありませんか。」(同上 5.13)

 そして、今日の箇所に続きます。「その日、シリアのナアマンは、神の人のことばどおりに下って行って、ヨルダン川に七度身を浸した。彼の体は元に戻り、小さい子どもの体のようになり、清くなった。」

 神のことばに対する信仰が、奇跡を起こしたのではないでしょうか。

 

あなたの信仰があなたを救った

 ところで、今日の福音においても、重い皮膚病の奇跡的ないやしについて語られていますが、ルカは、恐らく旧約時代のエリシャによるナアマンの重い皮膚病からのいやしの出来事を背景に思い起こしていたのかも知れません。

 とにかく、この奇跡物語の主人公は、ユダヤ人からは信仰を認められず異邦人扱いされ、軽蔑されていたサマリア人であります。

 イエスとその一行が、「ある村に入ると、重い皮膚病を患っている十人の人が出迎え、遠くの方に立ち止ったまま、声を張り上げて、『イエスさま、先生、どおうか、わたしたちを憐れんでください』と言った。イエスは重い皮膚病を患っている人たちを見て、『祭司たちのところへ行って、体を見せなさい』と言われた。」

  旧約時代にも、ハンセン病を含む思い皮膚病の患者さんたちは、健康な人たちには、伝染を恐れて近づくことは、宗教的な掟によって禁じられていました。(レビ 13.45-46:民数記5.2 参照)ですから、彼らは、「遠くの方に立ったまま、声を張り上げる」ことしかできなかったのです。

 また、その病気が癒され、社会復帰ができるためには、医者のところではなく、司祭たちによって証明されることが必要だったのです。(同上13.19;14.2 参照)

 ちなみに、日本においても「らい予防法」という法律によって、明治から平成に至るまでハンセン病(らい病)の患者の方々が、人権をも無視されるような厳しい差別を受けていたことを思い起こす必要があります。

 とにかく、この十人の患者たちは、祭司に体を見せる前に、なんと途中で癒されたのです。ところが、「その中の一人は、自分がいやされたのを知って、大声で神を賛美しながら戻って来た。そして、イエスの足もとにひれ伏して感謝した。」のです。

ここで言われている「自分がいやされたのを知って」ですが、この「知る」と訳されている言葉は、「見る」を意味します。つまり、このサマリア人は、途中で、自分かいやされた体験によって、まさに神のいやしの手を、信仰の目で「見た」のではないでしょうか。だからこそ、「神を賛美し、イエスに感謝」することができたのです。しかも、他の九人は、ただ「清くされた」体験に留まっていたので、それぞれの家に帰ってしまったのです。

 ところが、このサマリア人は、「清くされた」ことが、まさに「いやし」の体験にまで深められたのです。ですから、神のいやしの手が自分に触れたという体験になったからこそ、賛美しながら戻って来て、「イエスの足もとにひれ伏して感謝」することができたのではないでしょうか。

 ですから、イエスは、いとも厳かに宣言なさいました。「立ち上がって、行きなさい。あなたの信仰があなたを救った。」つまり、「救い」とは、信仰によって自分の体に起こったことをとおして、その背後にまさに神の手を見ることができるという体験にほかなりません。ですから、今度は、自分で立ち上がり、前に歩みだして行くことができたのではないでしょうか。

 実は、このサマリア人の信仰体験と同じような出来事が、ルカ福音でももう一つ報告されています。つまり、十二年間も出血の止まらない病気で苦しんでいた一人の女が、群衆にまぎれこみ、イエスの後ろから、イエスの服の房に触れただけでたちどころにいやされたという感動的な物語です。

「イエスは、『わたしに触れたのはだれか』と言われた。・・・イエスは、『だれかがはたしに触れた。わたしから力が出ていったのを感じたのだ』と言われた。女は隠しきれないと知って、震えながら進みでてひれ伏し、触れた理由とたちどころにいやされた次第とを皆の前で話した。イエスは言われた。『娘よ、あなたの信仰があなたを救った。安心して行きなさい。』」(ルカ 8.45-48)

 信仰によって、病気の癒しの体験をきっかけにして自分自身が、救われたつまり、神のいのちにつながったということを実感できたのはないでしょうか。

 まさに、信仰によって神から直接、いのちを注いていただくので、安心して前に進んで行くことができるのです。

 ですから、パウロは、信仰の生き方を極めて簡潔に勧めてくれます。

「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。どんなときにも感謝しなさい。これこそ、キリスト・イエスにおいて、神があなたがたに望んでおられることです。」(テサロニ一5.16-18)

 「信仰年」を締めくくるに当たって、改めて信仰のすばらしさを十分に味わい、一人ひとりがそして共同体ぐるみで、わたしたちの信仰を強めより豊かに育てていくことが出来るよう共に祈りたいと思います。