「祈るときの心の姿勢」
謙虚な人の祈りは、雲を突き抜け主に届く
「信仰年」を締めくくるにあたって、わたしたちの祈りについて少し振り返って見たいと思います。
早速、今日の第一朗読では、祈る人の心の姿勢について簡潔に次のように語られています。
まず、「御旨(みむね)に従って主に仕える人は、受け入れられ、その祈りは雲にまで届く。」のであります。ここで、「御旨に従って主に仕える」と言われていますが、とにかく、御旨に従うことこそが、まさに神に仕えることになるということではないでしょうか。ですから、わたしたちは、毎日、「主の祈り」で「御こころが天に行われるとおり地にも行われますように」と祈るのであります。つまり、何事においても、常に、神の御こころ、神の御旨が実現することを最優先させるということにほかなりせん。ですから、自分の思い、自分の考え、自分の計画を、決して神の押し付けてはいけないと言うことです。従って、いつも神の御
こころが、何であるのかを謙虚に聴き質すことが必要です。たとえば、乙女マリアが、天使ガブリエルから、神の御旨を告げ知らされたとき、「どうしてそのようなことがありえましょうか。わたしは男の人を知りませんのに」。(ルカ 1.34)と、天使に向かって聞き質しました。つまり、「神には何一つおできならないことはない。」(同上 1.37)を、決して疑ったのではなく、あくまでも、神のご計画の内容を確認させてもらったのではないでしょうか。
とにかく、わたしたちの祈りが神に届くためには、日々、神の御旨に従って生きることが、なくてはならない条件です。ですから、イエスは、次のように厳しく忠告なさっておられます。
「わたしに向かって、『主よ、主よ』と言う者がみな、天の国の入るのではない。天におられるわたしの父のみ旨を行う者だけが入るのである。」(マタイ 7.21)
続いて、シラ書は、語ります。
「謙虚な人の祈りは、雲を突き抜けて行き、
それが主に届くまで、彼は慰めを得ない。
彼は、祈り続ける。いと高き方が彼を訪れ、
正しい人々のために裁きをなし、正義が行われるときまで。」
洋の東西を問わず、いつの時代にも、社会的不正に苦しみ、また、内戦などで社会が不安定になったとき、いの一番に、やもめや孤児みなしごが代表するまさに社会的弱者が、被害者になります。そのような現状において、最も必要とされるのは、「謙虚な人の祈り」であります。
なぜなら、彼らの祈りは、「雲を突き抜けて行き、それが主に届くまで、彼は慰めを得ない」からにほかなりません。従って、「彼は、祈り続ける。」のであります。そうすれば、必ず、「いと高き方が彼を訪れ、正しい人々のために裁きをなし、正義が行われる」からです。
ですから、教皇フランシスコは、今、特に内戦で苦しんでいるシリアの方々のために祈るように繰り返し呼び掛けておられます。
祈る時の心の姿勢
次に、今日の福音ですが、イエスは、たとえによって祈るときの心の有り様と、その内容について具体的に教えてくださいます。
このたとえに登場する二人の人物の祈り方を、少し丁寧に見てみたいと思います。まず、二人の祈りの内容が、まさに対照的であります。
つまり、このファリサイ派の人は、感謝の祈りと自分が実行していることを披露しています。
「神様、わたしはほかの人たちのように、奪い取る者、不正な者、姦通を犯す者でなく、また、この徴税人のような者でもないことを感謝します。」
まさに、十戒のすべてを忠実に守っていることを自負し、特に、世間で罪人呼ばわりされている徴税人のようではないことを自慢しています。
彼は、さらに付け加えます。
「わたしは週に二度断食し、全収入の十分の一を献げています。」
とにかく、当時のユダヤ教では、週に二度の断食は、決して義務ではなく、また、獲得したもの「すべて」についての十分の一を納める必要もありませんでした。ですから、このファリサイ派の人の祈りから分かることは、彼は極めて熱心なユダヤ教信者であり、まさに自分に忠実であろうとしていた人物だったということです。
さらに、彼は、「守るべき掟」以上のことを実践しているわけですから、自分こそ「正しい者」を代表していると、「うぬぼれて」いたのではないでしょうか。
次に登場するのが、徴税人であります。
実は、当時のユダヤ社会の徴税人というのは、ローマ帝国の税金取り立ての請負人の手先であり、社会階級は低く、世間では罪人呼ばわりされていた人たちです。ですから、彼は、殿の本殿からは遠く離れて、立ったまま、自分の犯した悪を悔やみ、目を天に上げることもできません。そこで、彼は、悔い改めの気持ちを、自分の胸を打ちながら表します。詩編51 編の冒頭の祈りを思い起こさせる「神よ、わたしを憐れんでください。御慈しみをもって。深い憐れみをもって、背きの罪を拭い去ってください。」と祈るだけしかできません。
ファリサイ派の人は、自分の正しさを人と比較しながら神に感謝し、徴税人は、自分の罪深さを悔やんで神のあわれみをひたすら乞いました。
今日の第一朗読では、「謙遜な人の祈りは、雲を突き抜けて行き」とありましたが、わたしたちの祈るときの心の姿勢は、まさに、自分がどれほど神の憐れみを必要としている罪深い存在であるかを、謙虚に自覚することにほかなりません。
わたしたちが、ミサの最初に、毎回「あわれみの賛歌」を歌いますが、自分のあわれな姿を心から自覚しているのでしょうか。
とにかく、この徴税人のような祈りによってこそ、わたしたちも、神の御前で初めて義とされるのです。
つまり、この徴税人のように、自分の弱さを正直に認めることによって、神の憐れみ にすがってこそ、初めて神の前で正しい者と認められるのです。
詩編に次のような神の憐れみを願う祈りがあります。
「ご覧ください。 僕(しもべ)が主人の手に目を注ぎ
はしためが女主人に目を注ぐように
わたしたちは、神に、わたしたちの目を注ぎ
憐れみを待ちます。」(123.2)
また、マリアにならって、自分の弱さを認めることによって、神の憐れみの豊かさを賛美することが出来れば幸いではないでしょうか。
「わたしの魂は主を崇め、
わたしの霊は、
救い主である神に、喜び躍ります。
主が、身分の低いはしために、
目をとめてくださったからです。」(ルカ 1.47-48)