「今日(きょう)、救いがこの家を訪れた」
あなたはすべてをいとおしまれる
今日の第一朗読は、『知恵の書』からとられていますが、この文書は、聖書の中にある「知恵文学」の代表作と言えましょう。聖書で語られる「知恵」については、『箴言』で次のように説明されております。
「主を畏れることは、知恵の初め。・・・
知恵を授けるのは主。・・・
知恵があなたの心を訪れ、知識が魂の喜びとなり
慎重さがあなたを保ち、英知が守ってくれるので
あなたは悪い道から救い出され
暴言をはく者を免れることができる。」(1.7;2.6-12)。
この『知恵の書』が書かれた時代背景ですが、紀元前一世紀前半、シリアの支配から独立を勝ち取ったハスモン家がユダヤを統治していた時代です。しかも、その時代は、周辺諸国との争いに加え、国内でも権力抗争の激しい時で、とうとう紀元前 63 年には、ローマ帝国に征服されてしまい、その属州となったのです。ですから、『知恵の書』は、そのようなまさに激動の時代に、ユダヤ人たちが自分たちの伝統的な信仰をしっかり守るために励みとなる内容になっております。
そこで、今日の箇所ですが、『知恵の書』全体の文脈では、10 章から 11 章と 12 章において、特に神の忍耐を強調したイスラエルの民のエジプト脱出に始まる荒れ野での旅を思い起こさせ、神の力と愛に基づく忍耐こそが回心へと招くことを教えています。そのさわりの箇所を、少し引用してみたいと思います。
「知恵は、清い民、すなわち、とがのない種族を、
迫害者である民から解放された。・・・
彼らに紅海を渡らせ、
大量の水の間を通らせた。
他方、彼らの敵をおぼれさせ、
海の深みから吐き出した。・・・
知恵は彼らの業を、聖なる預言者の手で導いた。・・・
憐れみによる懲らしめを受けた彼らは
怒りによる裁きを受けた不信仰な者たちの苦しみが
どんなものであったかを知った。」(知恵 10 .15-11.9)
続いて、今日の箇所が次のように始まっています。
「主よ、御前では、全宇宙は 秤をわずかに傾ける塵、
朝早く地に降りる一滴の露にすぎない。
全能のゆえに、あなたはすべての人を憐れみ、
回心させようと、人々の罪を見過ごされる。」
今日、救いがこの家を訪れた
次に、今日の福音ですが、イエスが徴税人の頭(かしら)ザアカイの家を訪問なさった感動的な出来事を伝えています。
まず、ザアカイがイエスを一目見ようと思ったのは、単なる好奇心からだけだったのでしょうか。とにかく、彼のとった行動から見ると、 真(まこと)の救いを心の深いところで求めていたのかも知れません。ですから、いくつかの障害をも乗り越えて、なんと走って先回りしていちじくの木に登ってイエスを待っていたのです。ルカはその時の様子を、次のように端的に説明しています。
「そこを通り過ぎようとしておられたからである。イエスは、その場所の来ると、上を見上げて言われた。『ザアカイ、急いで降りて来なさい。今日は、ぜひあなたの家に泊まりたい。』」
ここで言われている「その場所」とは、まさに神によってあらかじめ準備された出会いの場にほかなりません。つまり、人それぞれには、必ずイエスに出会うことのできる場が整えられているということではないでしょうか。
聖書では、神と出会うことのできる場は、主に山となっていますが、とにかく、わたしたちの一回限りの人生の旅路の道すがら、イエスとの出会いが実現するように、神が計らってくださるのです。
例えば、エマオに向かって逃走中のクレオパともう一人の弟子も、その道すがらイエスに寄り添ってもらいました。ただ、この二人の弟子は、その道中では、まだ信仰の目が遮られていたので、復活のイエスだとは、全く気づかなかったので、このザアカイは、イエスから声をかけていただきました。
「ザアカイ、急いで降りて来なさい。今日は、ぜひあなたの家に泊まりたい。」と。
この「今日」こそ、まさに神によって準備されていたその日に他なりません。ですから、イエスは、宣言なさいました。
「今日は、ぜひあなたの家に泊まりたい。」と。つまり、神の御意志によって、「泊まることになっている」ことを、強調なさったのです。
イエスが、ザアカイの家に泊まられたのは、救いの恵みは、まさに各家庭に優先的に注がれることを知らせるためだったのではないでしょうか。
なぜなら、神の救いの業は、家族や家庭において実現して行くことは、聖書が一貫して主張していることにほかなりません。
ですから、神は、救いの歴史の最初に登場するアブラハムの家族を、神の救いの道具として選ばれました。
「主は、アブラムに言われた。『あなたの生まれた故郷 父の家を離れて わたしが示す地にいきなさい。わたしはあなたを大いなる国民にし、あなたを祝福し、あなたの名を高める 祝福に源となるように。・・・地上の氏族はすべて あなたによって祝福に入る。』」(創世記 12.1-3)。
ですから、家庭こそが神と出会う最初に決められ選ばれた場所になるのです。したがって、子どもたちが、信仰を育てて行くために親は大切な責任を担っているのです。
モーセも、まさに遺言のように、イスラエルの民に向かって訴えました。
「聞け、イスラエルよ。我らの神、主は唯一の主である。あなたは心を尽くし、魂を尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい。
今日、わたしが命じるこれらのことばを心に留め、子どもたちに繰り返し教え、家に座っているときも道を歩く説きも、寝ているときも起きているとこも、これを語りきかせなさい。」(申命記 6.4-7)
「信仰年」を終えるにあたって、共同体ぐるみで子どもたち、若者たちにしっかりとした信仰を伝えて行くことができるように、共に祈りたいと思います。