年間第 32 主日・C 年(2013.11.10)

「永遠の新しい 命へとよみがえらせてくださる」

復活信仰の芽生え

 かなり前の話になりますが、川越市で亡くなられた方の追悼ミサを、宮城県の出身教会でささげたときです。

 故人は、まだ四十代の働き盛りの建築家でしたので、彼が活躍していた会社の会長初め上司や、同僚の方々が大勢そのミサに参加してくれました。

 ミサ後、故人を偲ぶ御食事会で、その会長さんと隣り合わせになりました。その席上、会長さんがミサに参加した感想を話してくれました。

「せめて、今日一日でいいから、自分も復活を信じたい」と。

 彼は、役職柄、葬儀に参加する機会が多い方と察しますが、とにかく初めて参加したカトリックの追悼ミサで、復活が特に印象に残ったと言うのです。

 わたしたちは、ミサでの信仰宣言で、毎回、「からだの復活を信じます」と告白しますが、はたして、このまさに信仰の核心に触れる復活に対して、十分な意識を持っているでしょうか。

 図らずも、今日のミサのテーマは、復活であります。「信仰年」の終わりに当たって、あらためて復活の素晴らしさを確認すべきと思います。

 早速、今日の第一朗読を見てみましょう。『旧約聖書続編』にある『マカバイ記』からとられていますが、この文書が書かれたのは、紀元前一世紀と考えられますが、復活信仰の芽生えを感じさせる極めて貴重な箇所であります。

 とにかく、旧約聖書では、復活という言葉は、まだ、出て来ません。けれども、まさに、復活を暗示するような個所は、いくつか見出すことができます。

 例えば、紀元前一世紀後半に書かれたと推定される『ダニエル書』ですが、次のような箇所があります。

「地の塵の中に眠っている多くの者が目を覚ます。

 ある者は永遠の命に。

 ある者は永遠の恥とさげすみに至る。

 賢明な者たちは、大空の光のように輝き、

 多くの者を義へと導いた人々は

 星のように代々限りなく輝く。」(12.2-3)

 そして、今日の第一朗読箇所ですか、恐らく、殉教者たちの尊い死を敬うことから、まさに復活信仰が芽生えたと考えられます。

 今日の箇所の時代背景は、アンティオコス四世の迫害に対するユダヤ人の反乱つまり、マカバイ戦争で、ユダ・マカバイが自分たちの都エルサレムを奪回し神殿を清めた、紀元前二世紀前半の出来事であります。

 とにかく、今日の箇所に登場するのは、アンティオコス4世で、ユダヤ教を迫害し、異教の神ゼウスのための祭儀をエルサレムの神殿でも行うように強要したと言うのです。

 その時代のユダヤ人迫害の様子が、今日の箇所で生々しく描かれております。

 「7人の兄弟が母親と共に捕えられ、鞭や革紐で暴行を受け、律法で禁じられている豚肉を口にするよう、王に強制された。」

  特に、二番目の兄弟が息を引き取る直前に勇敢に叫んだ言葉です。

 「邪悪な者よ、あなたはこの世から我々の命を消し去ろうとしているが、世界の王は、律法のために死ぬ我々を、永遠の新しい命へとよみがえらせてくださるのだ。」

 実は、旧約聖書の死に対する一般的な考えは、先ず死者の行くべき場所があり、そこでは陰のようないのちしか生きることができず、まさに神から切り離され、恵みは期待できない所と考えられていました。ですから、詩編88編は、次のように祈っています。

 「あなたは、死者のために

 不思議な業を行われるでしょうか。

 亡霊が立って、あなたをたたえるでしょうか。

 あなたの慈しみが墓の中で語られ、

 あなたのまことが滅びの国で述べられるでしょうか。

 あなたの不思議な業が闇の中で知られ、

 あなたの義が忘却の地で知られるでしょうか。」(11-13)

 ところが、マカバイの時代、殉教者の死に対して、死後には神の恵みから無縁の状態に留まるのは、どう考えてもおかしいという思想が芽生えて来たのではないでしょうか。ですから、今日の箇所で次のことがいみじくも強調されているのです。

「わたしは天からこの舌や手を授かったが、主の律法のためなら、惜しいとは思わない。わたしは、主からそれらを再びいただけるのだと確信している。」

 まさに、「体の復活」であります。つまり、復活体験には、必ず体が伴うのです。ですから、イエスが、復活させられて初めて弟子たちの所に現われたとき、ご自分の傷跡のある両手と脇腹を弟子たちにはっきりとお見せになられたのです。(ヨハネ 20.20 参照)

 ちなみにパウロは、復活の体について次のように説明しています。

「また、天に属する体もありますし、地に属する体もあります。しかし、天に属する体の輝きと、地に属する体の輝きとは違っています。・・・死者の復活も、これと同じです。

蒔かれる時は滅び去るはずであったものが、復活する時は滅びないものとなります。蒔かれる時は卑しかったものが、復活する時は輝かしいものとなります。・・・自然の命の体として蒔かれて、霊的な体として復活するのです。・・・」(コリント一、15.40-44)

 

めとることも嫁ぐこともない

 ですから、今日の福音では、イエスは、復活を信じていないサドカイ派の人々に復活について極めて適切な説明をしておられます。

「この世の子らはめとったり嫁いだりするが、次の世に入って死者の中から復活するのにふさわしいとされた人々は、めとることも嫁ぐこともない。この人たちは、もはや死ぬことがない。天使に等しい者であり、復活にあずかる者として、神の子だからである。」

 まず、「この世」のいのちあり方で、「次の世」のあり方を推測できないのであります。

 確かに「この世の子ら」には死があるので、子孫によって生き残れるように、結婚して子どもをもうける必要があります。けれども、「死者の中から復活するにふさわしい人々は」、もはや死ぬことがないので、めとることも嫁ぐことも必要なくなります。まさに、「天使に等しい」、「復活の子たち」、「神の子たち」だからです。

 ですから、この復活信仰によって、決して避けることのできない死に対する思いは根本的に変えられました。教会は「死者の叙唱」で次のように祈ります。

「キリストのうちにわたしたちの復活の希望は輝き、死を悲しむ者も、とこしえのいのちの約束によって慰められます。

  信じる者にとって、死は滅びではなく、新たないのちへの門であり、地上の生活を終わった後も、天に永遠のすみかが備えられています。」

  わたしたちの復活信仰を、さらに強めていただけるようの共に祈りたいと思います。