年間第 33 主日・C 年(2013.11.17)

「あなたがたにとって証しをする機会となる」

証を機会とするなる

 イエスは、今日の福音で、世の終わりつまり終末の到来の前に、教会は必ず迫害に遭うが、それはまさに信仰を証する絶好のチャンスであると断言なさっておられます。

「民は民に、国は国に敵対して立ち上がる。そして、大きな地震があり、方々に飢饉や疫病が起こり恐ろしい現象や著しい徴が天に現れる。しかし、これらのことがすべて起こる前に、人々はあなたがたに手を下して迫害し、会堂や牢に引き渡し、わたしの名のために王や総督の前に引っ張って行く。それは、あなたがたにとって証をする機会となる。」

 ですから、教会の歴史は、まさに迫害の歴史なのです。

 エルサレムで誕生した教会は、まず、ユダヤ社会からそしてローマ帝国による迫害を体験しました。日本の教会の歴史も、キリシタン時代に早くも厳しいい迫害が始まりました。

  ちなみに初代教会の最初の殉教者である助祭のステファノの殉教の場面を、『使徒言行録』は次の様に感動的に伝えています。

  まず、ステファノは、群衆に向かって彼らが聖霊に逆らっていることを勇敢に暴きます。「『頑なで心と耳に割礼を受けていない人たちよ、あなた方はいつも聖霊に逆らっています。・・・あなた方の先祖が迫害しなかった預言者が、一人でもいたでしょうか。・・・・』それを聞いた人々は心の中で激しく怒り、ステファノに向かって歯ぎしりした。しかし、聖霊に満たされて天をじっと見つめていたステファノは、神の栄光と、神の右に立っておられるイエスを見た。そこで、彼は言った、『ああ、天が開けて、人の子が神の右に立っておられるのが見える』。人々は大声で叫びながら耳を覆い、ステファノを目がけて一斉に襲いかかり、彼を町の外に引き出して、石を投げつけた。・・・彼らが石を投げつけている間、ステファノは、『主イエス、わたしの霊をお受けください』と祈った。そして、ひざまずいて、大声で、『主よ、どうぞ、この罪を彼らに負わせないでください』と叫んだ。こう言って、彼は眠りについた」(使徒7.51-60)

  ちなみに、ギリシャ語では、「証人」を意味する言葉は、「殉教者」をも表し、殉教者たちを殉教者としたものは、英雄的「死」そのものよりも、その死にいたるまで生き続けた「証言者としての生涯」を強調しています。

  ですから、たとえ殉教という体験がなくても、まさに生涯かけて生き方を通して証しするのが信仰であるということではないでしょうか。

  しかも、わたしたちが自分の信仰をあかしできるのは、聖霊をいただいているからのほかなりません。確かに、イエスは、天に昇られる前に弟子たちの向かって次のように宣言なさいました。

「聖霊があなた方の上に降るとき、あなたがたは力を受けて、エルサレムと全ユダヤとサマリア、また地のはてに至るまで、わたしの証人となるであろう」(使徒 1.8)

  また、イエスは、迫害に遭うとき「前もって弁明の準備をするまいと、心に決めなさい。どんな反対者でも、対抗できないような言葉と知恵を、わたしがあなたがたに授けるからでる」と励ましておられます。

  ですから、天草の福者荒川は、刑場にたどりつくと、早速跪いて祈り、そして役人に向かって、勇敢に語った次のようなおことばをイエスから、いただきました。

「あなた方の子どもさんたちにキリシタンの勉強をさせなされ。あなたが方もなるべく早くキリシタンにおなりなさるがよい」。(片岡弥吉『日本キリシタン殉教史』252 頁)

 

証こそ信仰の伝達の基本

   昨年の 10 月にローマで開催されたシノドス(世界代表司教会議)第 13 回通常総会は、全世界の教会に向けて「最終メッセージ」を発表しました。その中で、次世代に信仰を伝えるために最も大切な場は家庭であると強調しています。

「最初に福音宣教が行われたときから、次の世代への信仰の伝達がおこなわれる自然な場は、家庭でした。家庭において女性は特別な役割を果たしますが、それによって父親とその責任が減るわけではありません。あらゆる家庭が子どもの成長のために配慮します。

 このような環境の中で、幼児と若者は、信仰のさまざまのしるし、伝えられる基本的な真理、祈りの教育、愛の実りのあかしへと導き入れられます。・・・シノドス参加司教は皆、家庭が信仰の伝達において不可欠な役割を果たすことを再確認しました。家庭に福音が告げ知らされ、家庭における教育の務めを支えるという特別な責任を果たさなければ、新たな福音宣教は考えられません。・・・

  家庭生活は、福音が日常生活と出会い、それが愛の展望において基本的な生活状況を造り変えうることを示す第一の場です。しかし、教会のあかしにとってさらに重要なのは、地上の生活が人間の歴史を超えた形で完成され、神との永遠の交わりに達することを示すことです。」(7 項)

 例えば、子どもに祈りを身に着けさせるためには、まず。親が祈る姿を子どもに示すことです。そこで、まさに親の後ろ姿を見ながら、子ともは毎日祈る習慣を身に着けることができるのです。信仰のあかしは、言葉によってではなく、実際の生き方を行動によって示すことではないでしょうか。

 以前行った「子どもにどのように信仰を伝えていますか」というアンケートに次のような答えがありました。

「結局は、親が祈り、生きる姿を見せる以外にはないと思います。それで少々はずかしくても子どもの前では、声を出して祈るようにしています。『愛』、『いのち』『死』は親であるわたしたちにも手探りの部分があり、伝えることの難しさを感じます。」

 「信仰について言葉で伝えるのはとても難しく、具体的に設問のような言葉について伝えることはありません。折りに触れ、具体的な出来事と結び付けて話すことはあります。また、教会に行く機会を多く持ち、子どもたちが肌で、祈ることや神の存在を身に付けて行くことが、一番の信仰教育だと思っています。

 「信仰年」を終えるにあたって、共同体ぐるみで信仰を子どもたちや若者たちにしっかりと伝えていくことが出来るよう共に祈りたいと思います。