待降節第 3 主日・B 年(2014.12.14)

「主にあっていつも喜べ、主は近づいておられる」

喜びを待ち望む

 今日の典礼のテーマは、喜びであります。

 ですから、待降節第 3 主日のミサの入祭唱で、フィリピ書を引用して「主にあっていつも喜べ。重ねて言う。喜べ。主は近づいておられる。」(フィリピ 4.4-5)と歌います。

 それは、全人類がそして宇宙全体で待ち望んでいるメシアが、だれであるかを、改めて確認することができるからにほかなりません。

 ですから、早速、今日の第一朗読で、預言者イザヤのメシア預言の叫びに耳を傾けるのであります。

「主はわたしに油を注ぎ、主なる神の霊がわたしをとらえた。

 わたしを遣わして、貧しい人に良い知らせを伝えさせるために。

 打ち砕かれた心を包み

 とらわれ人には自由を

 つながれている人には解放を告知させるために。」

  実は、ルカ福音記者によれば、初めて故郷ナザレに戻られたとき、安息日に会堂で、イエスご自身が、なんとこのイザヤ書を朗読なさったというのであります。

「イエスは巻物を巻き、係りの者に返して席に座られた。そこで、イエスは、『この聖書の言葉は、今日、あなたがたが耳にしたとき、実現した』と話し始められた。」(ルカ4.21)

 ちなみにイエスの先駆者洗礼者ヨハネは、自分の後から来られるメシアを、群衆に向かって次のように知らせました。

「わたしはあなたたちに水で洗礼を授けるが、わたしより優れた方が来られる。わたしはその方の履物のひもを解く値打ちもない。その方は、聖霊と火であなたたちに洗礼をお授けになる。」(同上 3.16)

  ですから、わたしたちはヨハネの洗礼ではなく、聖霊と火によるイエスの洗礼を受けているのであります。

 とにかく、恐らく紀元前 6 世紀ごろにこのメシア預言を告げた第三イザヤは、メシアがナザレのイエスだとは、まだ知ることができませんでしたが、預言の内容は文字通りイエスご自身にすべてあてはまるのであります。

 「主はわたしに油を注ぎ、主なる神の霊がわたしをとらえた。」

  マタイ、マルコ、そしてルカもこぞってイエスが洗礼者ヨハネから洗礼を受けた時に、御父から聖霊を注がれたと強調しています。マタイは次のように詳しく報告しています。

「イエスは洗礼を受けると、すぐ水の中から上がられた。そのとき、天がイエスに向かって開いた。イエスは、神の霊が鳩のようにご自分の上に降って来るのをご覧になった。

 そのとき、『これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者』という声が、天から聞こえた。」(マタイ 3.16-17)

 したがって、イエスが群衆に向かって福音を宣べ伝えたときも、また、様々な奇跡を行われた時も、まさに聖霊がイエスを通して働かれたことにほかなりません。ですから、イエスご自身が、次のように確認しておられます。

「わたしが神の霊で悪霊を追い出しているのであれば、神の国はあなたたちのところに来ているのだ。」(マタイ 12.28)

 

打ち砕かれ心を包み、とらわれ人には自由を

  今や、深刻な地球規模の問題を抱えている今日の世界の只中で、救い主イエスは、大勢の人々の心を聖霊によって力づけご自分の協力者として派遣しておられるのではないでしょうか。

 卑近な例を一つとりあげてみたいと思います。

 先日、ストックホルムで今年のノーベル平和賞の史上最年少の受賞者、パキスタンのママラ・ユスフザイ 17 歳は、女性や子ともたちの教育を受ける権利を訴え活動をしています。タリバン兵士の発砲によって頭に重傷受けても立ち上がり勢力的に活動を続けています。

 この勇敢なまさにメシア的少女は、その受賞式で次のような熱のこもったスピーチを行いました。

 なぜ、戦車をつくることは簡単で、学校を建てることは難しいのかと、教育環境の改善の進みが鈍いことを指摘し、次のように熱弁をふるいました。

「今日、わたしは自分の声をあげているわけではなく、6,600 万人の女の子を代弁しているのです。今日、世界の半分では、急速な進歩や発展がみられます。しかし、未だに何百万もの人々が、戦争や、貧困、不正、という昔ながらの問題に依然として苦しんでいる国もあります。紛争も見られます。何千という無実の人々が命を奪われています。子どもたちが、孤児になっています。アフリカの多くの子どもたちは、貧しさのために教育を受けることが出来ません。ナイジェリア北部には、今も学校に行く自由がない女の子たちがいます。

・・・親愛なる姉妹兄弟の皆さん、わたしたちは動くべきです。待っていてはいけない。動くべきです。政治家や世界の指導者たちだけでなく、わたしたちすべての人が貢献しなければなりません。わたくしも、あなたたちも、わたしたちも、それがわたしたちの任務です。」

 そうです、今日の典礼は、「貧しい人に良い知らせを伝えさせるために。

 打ち砕かれた心を包み とらわれ人には自由を つながれている人に解放を告知させるために。」と、大勢の人々の心の中に生まれてくださるメシアを預言しています。

  ですから、わたしたちもこの苦しみと悲しみが満ち溢れている今日の世界の只中にあって、より多くの人々に真の喜びをもたらすメシアの救いのみ業に参加する決意を新たにする時ではないでしょうか。

 わたしたちは、全人類さらに全宇宙の救い主イエスを、この現実の世界にお迎えするのであります。このことは、まさに神の愛のあかしとしての出来事にほかなりません。ですから、福音記者ヨハネは、意味軸も神の愛の情熱を、次のように宣言しています。

「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠のいのちを得るためである。・・・

 神は、独り子を世にお遣わしになりました。ここに愛があります。わたしたちが神を愛したのではなく、神がわたしたちを愛して、わたしたちの罪を償ういけにえとして、御子をお遣わしになりました。ここに愛があります。愛する者たち、神がこのようにわたしたちを愛されたのですから、わたしたちも互いに愛し合うべきです。」(ヨハネ 3.16:ヨハネ一 4.7-11)

  喜びを失い悲しみと苦しみにあえいでいる多くの人々に、メシアの誕生の喜びか確実に伝わっていくために、今週もまた、愛の実践に励むことができるように共に祈りたいと思います。