待降節第 2 主日・B 年(2014.12.7)

「主のために、道を備え、荒地に広い道を通せ」

慰めよ

 待降節の第二週目を迎え、わたしたちはまず、預言者の呼びかけに耳を傾けます。

 時は、紀元前 6 世紀の捕囚時代が終わる頃、預言者イザヤの弟子の一人である無名の預言者(便宜上第二イザヤと呼ぶ)が、捕囚民に向かって次のような神のことばを告げ知らせました。

「慰めよ、わたしの民を慰めよと

 あなたたちの神は言われる。

 エルサレムの心に呼び掛け、彼女に呼び掛けよ

 苦役の時は今や満ち、彼女の咎は償われた、と。」

   ちなみに、南のユダ王国は、紀元前 587 年に、新バビロニア王国によってその首都エルサレムが攻略され、王を含む主だった人々は、先勝国のバビロンの近郊に強制移住されられるという苦難の時代を体験していたのであります。

 それは、まさにイスラエルの民が神に背いたために、招いた試練の時だったのであります。

 けれども、預言者は叫びました。「苦役の時は今や満ち、彼女の咎は償われた」と。つまり、民の罪がまねいた捕囚という苦役の時が満ちたので、今や神の慰めの時が始まろうとしていると呼びかけたのであります。

 まさに、神が試練の時から、救いの時へと根本的に転換してくださるというのであります。

 わたしたちのそれぞれの人生においても、様々な試練を体験しなければなりませんが、それは神の憐れみによって必ず乗り越えることができるという呼びかけではないでしょうか。

 今なお、故郷に帰ることが出来ず、避難生活を余儀なくされている大勢の方々がおられます。そのような方々に対して、どのような希望と慰めのメッセージを提供できるのでしょうか。真剣に神に祈り求めなければなりません。

 

主のために、荒れ野に道を備え

 わたしたちの神のために、荒れ地に道を通せ。」

 また、預言者は、次のように叫び続けます。

「主のために、荒れ野に道を備え

   わたしたちのために、荒れ地に道を通せ。」

   何千キロも離れた捕囚地バビロンから、故郷に帰るためには、通常ユーフラテス川沿いに北上するルートをたどりますが、民を慰めようとする神は、なんと荒れ野に広い道を通し、まっすぐに西に向かうように導き、故国への帰還を実現させると言うのであります。

 ですから、わたしたちも試練の最中で、まさに最短距離で乗り越える神の力強い導きが、必ず与えられるということではないでしょうか。パウロも、そのことを次のように説明してくれます。

「あなたがたを襲った試練で、人間として耐えられないようなものは、なかったはずです。神は真実な方です。あなたがたを耐えられないような試練に遭わせることはなさらず、試練と共に、それに耐えられるよう、逃れる道をも備えてくださいます。」(コリント一、10.13)

  とにかく、捕囚民の解放という第二イザヤの預言は、紀元前 539 年に、ペルシャ王キュロスが、彼らにエルサレムへ帰る許可を与えることによって見事に実現したのであります。

 

神の子イエス・キリストの福音の実現

   ところで、福音記者マルコは、今日の福音で、イエス・キリストによる罪からの解放が、喜ばしい知らせであることを強調しています。

 つまり、預言者イザヤによって告げ知らされた捕囚民の解放は、メシアであるイエスによってこそ、見事に成就したと宣言しているのであります。

 ですから、マルコは、初めてイエスの生と死、つまりイエスが語り、実際に行った救いのみ業をすべてまとめて、喜ばしい知らせ、つまり「福音」として書き残したのであります。

 そして、その冒頭に、イザヤの預言の成就として、洗礼者ヨハネを登場させるのであります。

「荒れ野で叫ぶ者の声がする。

『主の道を整え、その道筋をまっすぐにせよ。』」

 この洗礼者ヨハネこそ、待降節の大切な登場人物であります。なぜなら、このヨハネが、人びとにメシアを迎える準備をさせていたからにほかなりません。それは、まず、罪の赦しを得るために「悔い改めの洗礼」を授けることでした。

 つまり、メシアをわたしたちの生活の只中にお迎えできる道を整えることによって、わたしたちがイエスの示す道を通り御父に近づくことが出来るのであります。それは、聖霊による洗礼を受けることにほかなりません。

 ですから、パウロはわたしたちが受けた洗礼の恵みを、次のように簡潔に説明してくれます。

「洗礼を受けてイエス・キリストと一致したわたしたちはみな、キリストの死にあずかる洗礼を受けたのではありませんか。わたしたちはその死にあずかるために、洗礼によってキリストと共に葬られたのです。それは、キリストが御父の栄光によって復活させられたように、わたしたちもまた、新しいいのちに歩むためです。」(ローマ 6.3-4)

  したがって、預言者イザヤが叫んだ、「荒れ地に広い道を通せ」とは、まさに聖霊による洗礼を受けてイエス・キリストにしっかりと結ばれることによって見事に実現するのであります。

 イエスは宣言なさいました。

 「わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない。」(ヨハネ 14.5)

  この恵みの時、待降節にあたって、わたしたちのキリスト者としての生き方を整える、まさに回心の時ではないでしょうか。それは、日々、イエスに忠実に聞き従うという新しい生き方を実践することにほかなりません。

 洗礼者ヨハネが叫んだ「主の道を整え、その道筋をまっすぐにせよ。」とは、実に、わたしたちの信仰の原点に立ち返って、イエスの示される道を忠実に歩む生き方に、自分中心の生き方を根本的に方向転換することであります。

 今週もまた、この真の回心の道を忠実に歩み続けることが出来るよう共に祈りたいと思います