王であるキリストの祭日・A年(2014.11.23)

「人の子は自分の命をささげるために来た」

王であるキリストの祭日

 教皇ピオ十一世は、1925 年に、ニケヤ公会議 1600 年記念祭に当たって「王であるキリストの日」を定めました

 つまり、「我々の主イエス・キリスト、全世界の王の祭日」を毎年10月最後の日曜日に祝うことを決定したのであります。けれども、今日(こんにち)教会暦の新しい原則に従って、この祭日は年間の最後の日曜日に移されました。

 

お前がユダヤ人の王なのか

 ちなみに、イエスが王であるかを最初に尋問したのはローマ総督ピラトでした。すなわち、ユダヤ教の指導者たちが、イエスをピラトに引き渡し、死刑の判決を下してもらうために、総督官邸に連れ出した場面であります。

「そこで、ピラトはもう一度官邸に入り、イエスを呼び出して、『お前がユダヤ人の王なのか』と言った。イエスはお答えになった。『あなたは自分の考えで、そう言うのですか。それとも、ほかの者がわたしについて、あなたにそう言ったのですか。』・・・イエスはお答えになった。『わたしの国は、この世には属していない。もし、わたしの国がこの世に属していれば、わたしがユダヤ人に引き渡されないように、部下が戦ったことだろう。しかし、実際、わたしの国はこの世には属していない。』そこでピラトが、『それでは、やはり王なのか』というと、イエスはお答えになった。『わたしが王だとは、あなたが言っていることです。わたしは真理について証しするために生まれ、そのために世に来た。真理に属する人は皆、わたしの声を聞く。』」(ヨハネ 18.33-37)

 ピラトの尋問において、イエスは、ご自分の十字架上の死が、犯罪者への刑罰ではなく、まさに贖いの愛の行為であることを暗示しておられます。とにかく、イエスの王国は、この世のものではなく、むしろ真実と愛が支配する神の「王国」なのです。したがって、イエスのこの世における使命は、「真理について証しする」ことによって、ご自分が王であることを世が知るようになるためです。

 ですから、イエスは宣言なさいました。

「わたしは道であり、真理であり、いのちである。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない。」(同上 14.6)

 

小さく弱きものを保護する王である神

 ちなみに、旧約聖書に登場する神は、小さく弱き者を保護する王としてご自分のイメージにしています。ですから、詩編作者は、次のように祈っています。

 「主は世々限りなく王。

 主の地から異邦の民は消え去るでしょう。

 主よ、あなたは貧しい人に耳を傾け

 その願いを聞き、彼らの心を確かにし

 みなしごと虐げられている人のために

 裁きをしてくださいます。

 この地に住む人は

 再び脅かされないでしょう。」(詩編 10.16-18)

 このように主なる神が、王のイメージで示されるのは、権力で支配するのではなく、限りなき愛と

慈しみによって、貧しき者、弱き者、小さき者を守って下さるからであります。

 

理想的王としてのメシア像

 さらに、旧約聖書においては、待望のメシアを、理想的な王として描いております。それは、まさにダビデ王家から救い主が誕生するという預言に発展したのであります。

 ですから預言者ナタンは、ダビデ王に向かって次のような感動的なメシア預言を語りました。

「あなたが生涯を終え、先祖と共に眠るとき、あなたから出る子孫に跡を継がせ、その王国を揺るぎないものとする。この者がわたしの名のために家を建て、わたしは彼の王国の王座をとこしえに堅く据える。わたしは彼の父となり、彼はわたしの子となる。・・・あなたの王国は、あなたの行く手にとこしえに続き、あなたの王座はとこしえに堅く据えられる。」(サムエル記下 7.12-16)

 ですから、その後、預言者イザヤは、このメシア預言を、次のようにさらに発展させることができたのです。

「ひとりのみとりごがわたしたちのために生まれた。

 ひとりの男の子がわたしたちに与えられた。権威が彼の肩にある。

  その名は、『驚くべき指導者、力ある神

 永遠の父、平和の君』と唱えられる。

 ダビデの王座とその王国に権威は増し

 平和は絶えることがない。」(イザヤ 9.5-6)

ですから、「王であるキリスト」の叙唱で、教会は次のように声たからかに唱えます。

「あなたはひとり子である主イエス・キリストに喜びの油を注ぎ、永遠の祭司、宇宙の王となさいました。キリストは十字架の祭壇で、ご自分を汚れのない和解のいけにえとしてささげ、人類あがないの神秘を成し遂げられ、宇宙万物を支配し、その王国を限りない栄光に輝くあなたにおささげになりました。真理と生命の国、聖性と恩恵の国、正義と愛と平和の国。」

 

人の子は仕えられるためではなく仕えるために

 ところで、この宇宙万物の王であるキリストは、徹底して特に貧しき者、小さい者、弱き者に仕えることによってすべてを支配なさるのです。ですから、弟子たちに向かって次のような勧告を与えられました。

「あなたがたの中で偉くなりたい者は、皆に仕える者になり、一番上になりたい者は、すべての人の僕になりなさい。人の子は仕えられるためではなく、仕えるために、また、多くの人の身代金として自分のいのちをささげるために来たのである。」(マルコ 10.43-45)

 したがって、神の国を受け継ぐ条件は、今日の福音が強調しているようにイエスの兄弟である最も小さい者に仕えることにほかなりません。

 ですから、洗礼によってキリストの王職に与かる者となったわたしたちは、徹底して愛の実践に励まなければならないのです。

 今週もまた、奉仕に生きることが出来るように共に祈りたいと思います。