年間第33主日・A年(2014.11.16)

「主の日にそなえて光の子として歩む」

主の日にそなえて

 典礼暦もいよいよ終わりに近づき、教会は、主の再臨つまり、「主の日」にそなえて今をどう生きるべきかの自覚を典礼において呼び掛けます。

 ですから、今日の第二朗読で、パウロは、「ほかの人々のように眠っていないで、目を覚まし、身を慎んでいましょう。」と勧告しています。

 実は、すでに旧約聖書において「主の日」が、神が歴史に決定的に介入する日であり、最後の裁きの日であると宣言しています。たとえば、預言者イザヤは、次のように叫んでいます。

「泣き叫べ、主の日が近づく。全能者が破壊する者を送られる。・・・見よ、主の日が来る 残忍な、怒りと憤りの日が。大地を荒廃させ そこから罪人を絶つために。」(イザヤ 13.6,9)

  けれども、その日は、忠実な神の民が解放される救いの日にほかなりません。ですから、預言者ヨエルは、次のように強調しています。

「しかし、主の御名を呼ぶ者は皆、救われる。主が言われたように シオンの山、エルサレムには逃れ場があり 主が呼ばれる残りの者はそこにいる。」(ヨエル 3.5)

  とにかく、「主の日」こそ、古い世界が滅び、新しい世界が生まれる日であります。ですから、初代教会では、この「主の日」を、「キリストの再臨の日」として受け止め、「キリストの日」と呼ぶようになったのであります。

   そこで、パウロは、今日の第二朗読で、極めて大切な励ましを与えてくれます。

   兄弟たち、あなたがたは暗闇の中にいるのではありません。ですから、主の日が、盗人のように突然あなたがたを襲うことはないのです。あなたがたはすべて光の子、昼の子だからです。わたしたちは、夜にも闇にも属していません。したがって、ほかの人々のように眠っていないで、目を覚まし、身を慎んでいましょう。」

   実は、イエスご自身が、群衆に向かって、次のような力強い勧めのおことばを与えてくださいました。

「暗闇に追いつかれないように、光のあるうちに歩きなさい。暗闇の中を歩く者は、自分がどこに行くのか分からない。光の子となるために、光のあるうちに、光を信じなさい。」(ヨハネ 12.35-36)

   では、なぜわたしたちが光の子になれたのですか。パウロは、次のように説明してくれます。

「あなたがたは、以前には暗闇でしたが、今は主に結ばれて、光となっています。光の子として歩みなさい。」(エフェソ 5.8)

    洗礼によってキリストに結ばれたわたしたちは、光の子となったのです。ですから、光の子として歩むために、常にイエスにしっかりとつながっていなければなりません。つまり、イエスから離れて自分の思いで生きるのではありません。

   したがって、イエスは、弟子たちと別れるに当たって、次のような大切なおことばを残されたのです。

 「わたしにつながっていなさい。わたしもあなたがたにつながっている。ぶどうの枝が、木につながっていなければ、自分では実を結ぶことができないように、あなたがたも、わたしにつながっていなければ、実を結ぶことが出来ない。・・・あなたがたがわたしにつながっており、わたしの言葉があなたがたの内にいつもあるならば、望むものを何でも願いなさい。そうすればかなえられる。」(ヨハネ 15.4-7)

 イエスの語られた一言ひとことを心に留め、日々主と共に救いの完成を目指して歩み続けることこそが、「主の日」に備えることにほかなりません。

  ですから、パウロは、「ほかの人のように眠っていないで、目を覚まし、身を慎んでいなさい。」と勧告しています。

 ここで、パウロが言う「眠り」とは、まさに神の呼び掛けに気づかない態度を表わしているのではないでしょうか。そこで、わたしたちは、日々「み旨が天に行われるとおり、地にも行われますように」と、神の御心に忠実に従うよう努めるのです。

 

出かけて行って実を結ぶ

 次に、イエスは、今日の福音でタラントンのたとえによって、わたしたちを励ましておられます。わたしたちは、分に応じて神から豊かな賜物をいただいています。それは、宝の持ち腐れのように自分のために蓄えるためではありません。それは、特に、人のために役立てるためではないでしょうか。

 ですから、タラントンのたとえにあるように、それぞれ神からいただいたものは、特に助けを必要としている人々に関わるために使いなさいと励ましておられるのではないでしょうか。

 たとえば自分に与えられた健康は、出かけて行ってボランティア活動に参加するためなのです。また、自分に与えられた時間は、悩み事を忍耐強く聞いてあげるために使うのです。さらに、器用さという能力をもらっているなら、不器用な人に手伝うことができます。

 そして、イエスは、具体的な愛の実践のために自分の能力を使うことを、次のように励ましておられます。

「さあ、わたしの父に祝福された人たち、天地創造の時からお前たちのために用意されている国を受け継ぎなさい。お前たちは、わたしが飢えていた時に食べさせ、のどが渇いていたときに飲ませ、旅をしていたときに宿を貸し、裸のときに飲ませ、旅をしていたときに宿を貸し、裸のときに着せ、病気のときに見舞い、牢にいたときに訪ねてくれたからだ。・・・はっきり言っておく。わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたことは、わたしにしてくれたことなのである。」(マタイ 25.34-40)

  わたしたちが神からいただいた種々の能力や賜物は、すべて愛の実践のために使いなさいという励ましではないでしょうか。

 ですから、今日の典礼のテーマである、「主の日にそなえる」とは、わたしたちが日々の生活と働きにおいて神からいただいた恵みを分かち合うという生き方の実践にほかならないと言えます。

 したがって、このミサこそが、分かち合いの生き方の土台になっているのです。ミサの前半の「ことばの典礼」で、みことばを分かち合い、神の語りかけを黙想します。

   次に、後半の「感謝の典礼」で、イエスの御からだと御血を分かち合い、交わりの儀で、キリストを中心にした交わりと一致を体験します。そして、ミサによって派遣されたそれぞれの場で、ミサでいただいためぐみを分かち合います。

 ですから、ミサこそ、「主の日」にそなえる最も大切な準備であると言えるのではないでしょうか。奉献文の中の記念唱で、会衆は、「信仰の神秘」の宣言に対して歌います。

「主の死を思い、復活をたたえよう、主が来られるまで。」と。