年間第33主日・A年(2014.10.26)

「あなたの神である主を愛し 隣人を自分のように愛しなさい」

あなたがたの父が憐れみ深いように、あなたがたも憐れみ深い者になりなさい

今日の第一朗読ですが、旧約聖書にある『出エジプト記』からとられています。この書物は、イスラエルの民が、エジプトでまさに奴隷として虐げられ搾取されていた苦しみから、モーセの活躍によって、見事に解放されたという壮大な救いのドラマを語っております。そこで、まず、主なる神が、ご自分の民を救い出される決意を、モーセに次のように宣言なさいました。

「わたしは、エジプトにいるわたしの民の苦しみをつぶさに見、虐げる者の故に叫ぶ彼らの叫び声を聞き、その痛みを知った。それゆえ、わたしは降って行き、エジプト人の手から彼らを救い出し、この国から、広々とした素晴らし土地、乳と蜜の流れる土地へ彼らを導き上る。」(出エジプト記 3.7-8)

いつの時代においても、主なる神は、悲しみと苦しみの最中(さなか)にある小さき人々を限りなき憐れみによって、必ず救い出してくださるのです。ですから、今日の朗読箇所は、次のように締めくくられています。

「もし、彼がわたしに向かって叫ぶならば、わたしは聞く。わたしは憐れみ深いからである。」

 この神の憐れみに満ちた愛を、身をもって示されたのは、言うまでもなく、イエスご自身にほかなりません。

ですから、福音書には、この天の御父とイエスについてのみ使われる特別なことばがあります。それは、ギリシャ語では「スプランクニゾマイ」と言われ、たとえばイエスのはらわたの底からわきでるまさに情熱的で神秘的な感情をあらわす表現なのであります。また、ヘブライ語では、「ラハミム」、つまり父なる神の胎内を意味することばにつながります。つまり、イエスの示される憐れみは、非常に深く、かつ内的で、しかも力強い衝動なので、まさに神の胎内の動きとしてしか表現できない感情にほかなりません。それは、たとえば、一人息子を亡くしまさに埋葬に向かう途中のやもめに示されたイエスの深い憐れみの感情であります(ルカ 7.13 参照)。

ですから、このイエスの深い憐れみの心にわたしたちも与かることができるのです。

以前、聞いたことですが、インドシナ戦争の最中、大勢の難民たちが、タイとの国境近くにある難民キャンプに収容されている悲惨な姿が、テレビの特別報道番組で放映されていたそうです。ところが、それを見ていた三歳の幼子が、特に難民の子どもたちの苦しみを目の当たりにしたとき、思わず自分が食べかけていたおやつを、テレビに向かって、「これ、食べなさいよ!」と差し出したそうです。また、その傍で同じようにテレビを見ていたおじいちゃんが、なんと一大決心をしたのです。「おらいの孫は、なんと優しい心をもっていることか。おれも何かしなければならない。」そして、ご自分の老後のために蓄えていた 1000 万という大金を、難民救済のためにそっくり寄付なさったそうです。しかも、匿名で、ただ「孫の心より」というメモを添えて。・・・

ですから、イエスが、弟子たちを教育するに当たって、特に強調したのは憐れみの愛を育てることでした。したがって、イエスは、次のように強調なさいました。

「敵を愛し、あなたがたを憎む者に親切にしなさい。悪口を言う者に祝福を祈り、あなたがたを侮辱する者のために祈りなさい。・・・求める者には、だれにでも与えなさい。あなたの持ち物を奪う者から取り返そうとしてはならない。・・・あなたがたは敵を愛しなさい。人に善いことをし、何も当てにしないで貸しなさい。そうすれば、たくさんの報いがあり、いと高き方の子となる。いと高き方は、恩を知らない者にも悪人にも、情け深いからである。あなたがたの父が憐れみ深いように、あなたがたも憐れみ深い者となりなさい。」(ルカ 6.27-36)

 

神を愛することは、人を愛すること

次に今日の福音ですが、イエスがファリサイ派の学者たちと、最も重要な掟について論争している場面を伝えています。イエスの時代にユダヤ社会で、確かに指導的なグループはファリサイ派の律法学者たちでした。そのエリート集団の一人、律法の専門家が、イエスを試そうと極めて重大な質問を投げかけたのです。

「先生、律法の中で、どの掟が最も重要でしょうか。」それに対して、イエスはいとも明解にお答えになりました。

「『心を尽くし、精神を尽くし、思いをつくして、あなたの神である主を愛しなさい。』これが最も重要な掟である。」

この答えは、旧約聖書にある『申命記』の 6 章 5 節からの引用であります。

ちなみに、この『申命記』ですが、実際に書かれたのは紀元前 8 世紀から 6 世紀の間と考えられますが、内容は、紀元前 13 世紀ごろモーセに導かれ 40 年にわたる荒れ野での旅を終えて、ようやく約束の地を川向うに眺めることができるヨルダン川のほとりに辿り着いたときの、モーセの最後に説教であります。

ですから、モーセは、あたかも遺言のようにイスラエルの民に向かって切々と語ったのです。したがって、この 6 章は、『申命記』全体の心臓部にあたる箇所であります。では、全身全霊を尽くして神を愛るすとは、一体どんな掟なのでしょうか。福音記者ヨハネは、その手紙の中で、極めて完結な説明をしています。

「神を愛するとは、神の掟を守ることです。神の掟は難しいものではありあせん。神から生まれた人は皆、世に打ち勝つからです。世に打ち勝つ勝利、それはわたしたちの信仰です。」(一ヨハネ 5.3-4)

 つまり、神への愛とは、わたしたちが信仰によって世の価値観に打ち勝つことなのです。それは、強い者勝ちの弱肉強食の論理に対抗して、福音の価値観を生きることではないでしょうか。ですから、イエスは重要な第二の掟として、「隣人を自分のように愛しなさい。」とお答えになりました。この掟は、『レビ記』の 19 章 18 節の引用であります。

ちなみにイエスは、弟子たちと別れる直前に、新しい掟を与えられました。

「あなたがたに新しい掟を与える。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。互いに愛し合うならそれによってあなたがたがわたしの弟子であることを、皆が知るようになる。」(ヨハネ 13.34-35)

今年も、来月の最後の主日から待降節が始まります。この恵みの時期に、わたしたちの共同体が派遣されているそれぞれの地域の人々に、救い主イエス・キリストの降誕を知らせるときです。それは、福音記者ヨハネが、強調している次のようなメッセージを伝えることではないでしょうか。

「神は、独り子を世にお遣わしになりました。その方によって、わたしたちが生きるようになるためです。・・・愛する者たち、神がこのようにわたしたちを愛されたのですから、わたしたちも互いに愛し合うべきです。」(一ヨハネ 4.9-11)