年間第28主日・A年(2014.10.12)

「神はわたしを生き返らせ いつくしみによって正しい道に導かれる」

主はわれらの牧者、わたしは乏しいことがない

 先ほど、わたしたちは信頼をこめて、答唱詩編 23 編を歌いました。

 旧約聖書におさめられている詩編 150 編の中で、恐らく最も親しまれている詩編ではないでしょうか。なぜなら、神の救いの恵みの豊かさに与かることが出来るすばらしさを、羊飼いと羊のイメージで美しくうたい上げているからです。

 ただ、お手もとの「聖書と典礼」に掲載されたいることばは、『典礼聖歌』にも載っているもので、わたしたちが日頃使っている『新共同訳聖書』の訳とは、異なる訳であります。

 ですから、答唱の「主はわれらのぼくしゃわたしはとぼしいことがない」というくだりは、『新共同訳聖書』では、「主は羊飼い、わたしには何も欠けることがない」となります。とにかく、この冒頭句は、羊であるわたしたちの、牧者である父なる神に向かっての、全面的な信頼のこもった信仰告白にほかなりません。

 実は、詩編 8 編に次のようなくだりがあります。

「人の子〔が何であればとて〕、これを心にかけられるのか。

 あなたは、これを神よりもわずかに欠けたものとし、」(『岩波聖書訳』)と歌います。

  ですから、「わたしには何も欠けることがない」とは、まさに神の愛によってわたしたちに欠けているものがすべて満たされることになるということにほかなりません。

 そこで、「主は羊飼い」というイメージですが、聖書では、たびたび使われています。

 たとえば、イザヤ書では、次のようにうたわれています。

「主は羊飼いとして群れを養い、御腕(みうで)をもって集め、小羊をふところに抱き、その母を導いて行かれる。」(40.11)

 とにかく、主である神がわたしたちを養い、守り、導いてくださる羊飼いなので、わたしたちの人生の旅路においてたとえどんなことが起ころうとも、神の力強いご加護に包まれるので、不足なものは全くないという信仰告白なのであります。ですから、パウロも、今日の第二朗読で、次のように強調しています。

「わたしたちの神は、ご自分の栄光と富に応じて、キリスト・イエスによって、あなたがたに必要なものをすべて満たしてくださいます。」

 次に、「神はわたしを緑の牧場に伏させ」は、「主はわたしを青草の原に休ませ」となります。

 まさに、荒れ野の中でも、必ず豊かな土地に導いてくださるに違いないという信頼です。

 ところで、この青草ですが、芽を出したばかりの若草のことです。ですから、砂漠地帯の乾燥し切った大地に、いったん雨が降れば一斉に芽を出し、緑の草原になるという情景を、神の偉大な力が示されたと見たのではないでしょうか。ですから、神のことばも、大地を潤し青草を芽生えさせる雨にたとえられています。

「地よ、聞け、わたしの語ることばを。

 わたしの教えは雨のように降り注ぎ

 わたしのことばは露のように滴る。

 若草の上に降る小雨のように

 青草の上に降り注ぐ夕立のように」(申命 32.1-2)

 次の「いこいの水辺に伴われる」は、「憩の水のほとりに伴い」となりますが、主なる神は、さらに憩の水辺に、伴って疲れを回復させてくだるというのです。このような神のご加護は、イスラエルの民が、特に荒れ野での 40 年にわたる旅において、たびたび体験したことではないでしょうか。

 ですから、同じイザヤは、つぎのように預言します。

「<主>は捕らわれ人には、出でよいと

 闇に住む者には身を現せ、と命じる。

 彼らは家畜を飼いつつ道を行き

 荒地はすべて牧草地になる。

 彼らは飢えることなく、渇くこともない。

 太陽も熱風も彼らを打つことはない。

 憐れみ深い方が彼らを導き

 湧き出る水のほとりに彼らを伴って行かれる。」(イザヤ 49.9-10)

 ですから、50年以上にわたって強制移住させられていた捕囚時代が終わり、いよいよ祖国に帰ることができるイスラエルの民も、先祖たちがエジプトを脱出したときのように、なんと砂漠で湧き出る泉によって渇きをいやされると言う預言です。

「主が彼らを導いて渇いた地を行かせるときも

 彼らは渇くことがない。

 主は彼らのために岩から水を流れ出させる。

 岩は裂け、水がほとばしる」(同上 48.21)。

ちなみに、聖書で言われる「水」ですが、まず、「いのちの源である神」を示します。

ですから、詩編で、次のようにうたわれています。

「神に、いのちの神に、わたしの魂は渇く。

 いつ御前に出て、

 神の御顔を仰ぐことができるのか」(詩編 42.3)

 したがって、わたしたちが、神から離れれば離れるほど、乾ききった土地のように魂が枯れ果ててしまいます。

 また、「水」は、聖霊のシンボルでもあります。ですから、イエスご自身、次のように優しく呼びかけておられます。

「渇いている人はだれでも、わたしのところに来て飲みなさい。わたしを信じる者は、聖書に書いてあるとおり、その人の内から生きた水が川となって流れ出るようになる。」・・・イエスは、ご自分を信じる人々が受けようとしている“霊”について言われたのである」(ヨハネ 7.37-39)

 そして「神はわたしを生き返らせ」ですが、「魂を生きかえらせてくださる。」となります。これは、今日の第一朗読の「死を永久に滅ぼしてくださる。」に見事につながります。つまり、主によって憩の水のほとりに伴われることは、生き返ること、まさにいのちのよみがえりの体験なのです。

 ですから、パウロが教えてくれるように、わたしたちの日々の生き方は復活の恵みに与かるために一歩一歩近づくことにほかなりません。

「わたしは、キリストとその復活の力とを知り、その苦しみにあずかって、・・・何とかして死者の中からの復活に達したいのです。」(フィリピ 3.10) 

 今週もまた、善い羊飼いであるイエスに、日々忠実に聞き従うことが出るように共に祈りたいと思います。