年間第27主日・A年(2014.10.5)

「神の国はあなたたちから取り上げられる」

救いの歴史におけるどんでん返し

 今日の福音が語る「ぶどう園と農夫」のたとえは、その筋書きが極めて明解であります。

 すなわち、「ぶどう園の主人」は、神であり、「ぶどう園」は、今日(きょう)の第一朗読にあるように神の民イスラエルにほかなりません。

 次に登場する「農夫たち」は、イスラエルの特に指導者たちを表しています。また、「主人が送りこむ僕たち」とは、旧約聖書に登場する預言者たちです。さらに「主人の息子」は、言うまでもなくイエスのことです。

 次に、42 節で引用されている聖書の個所は、詩編 118 編、22 節と 23 節ですが、まさにイエスが受難と死をとおして復活し、教会の土台となられたことを、預言していると解釈できます。

 さらに、この 34 節に登場する僕たちですが、迫害に遭ったので、次に前よりも多くの僕たちが送られたとありますが、イスラエルの歴史において極めて重要な出来事であった捕囚時代(587-538BC)以前とその後に遣わされた預言者たちと考えられます。

 とにかく、神から特別に選ばれたイスラエルが、預言者たちのことばに従わず、反抗的な態度を改めなかったため、まさに、神の国は取り上げられ、相応しい実を結ぶ異邦人に与えられることになったという救いの歴史のドラマにほかなりません。

 

神の国に入るために何が必要なのか

 では、神の国に入るために、何をすべきなのかを、特に福音書を手掛かりに少し確認してみたいと思います。

 まず、福音記者ルカが語る神への全面的な信頼の大切さについての次のようなくだりであります。

 「あなたがたのうちのだれが、思い悩んだからといって、寿命をわずかでも延ばすことができようか。こんなごく小さな事でさえできないのに、なぜ、ほかの事まで思い悩むのか。野原の花がどのように育つかを考えてみなさい。働きもせず紡ぎもしない。しかし、言っておく。栄華を極めたソロモンでさえ、この花の一つほどにも着飾ってはいなかった。今日は野にあって、明日は炉に投げ込まれる草でさえ、神はこのようの装ってくださる。まして、あなたがたにはなおさらのことである。信仰の薄い者たちよ。あなたがたも、何を食べようか、何を飲もうかと考えてはならない。また、思い悩むな。・・・あなたがたの父は、これらのものがあなたがたに必要なことをご存じである。ただ神の国を求めなさい。そうすれば、これらのものは加えて与えられる。小さな群れよ、恐れるな。あなたがたの父は喜んで神に国をくださる。」(ルカ 12.25-32)

 思い悩むのをきっぱりやめて、天の御父にすべてを委ね、信頼して神の国を求めることが肝心なのです。そうすれば、天の御父は必ず神の国を与えてくださいます。

 さらに、同じルカは、この神の国が実現するは、一体、何時なのかと言う問いに対して、極めて適切な説明を次のようにしてくれます。

「イエスは答えて言われた。『神の国は、目に見える形では来ない。『ここにある』『あそこにある』と言えるものでもない。実に、神の国はあなたがたの間にあるのだ。』(ルカ 17.20-21)

 つまり、一定の場所や時間に制約されない、まさにわたしたちのお互いのかかわりの只中にこそ神の国が実現するということではないでしょうか。ですから、たとえば、憎しみ合っていた者同士が、心の底から和解できたとき、神の国が来たことになるのです。また、自分には全く関係ないと思っていた貧しい人々に援助の手を差し伸べるとき、神の国を体験できるのです。

 したがって、ルカは、「あなたがたの父は喜んで神の国をくださる。」と断言したあとに、次のイエスの勧めのことばを伝えています。

「自分の持ち物を売り払って施しなさい。擦り切れることのない財布を作り、尽きることのない富を天に積みなさい。そこには、盗人も近寄らず、虫も食い荒らさない。あなたがたの富のあるところに、あなたがたの心もあるのだ。」(同上 12.33-34)

 いつも、特に苦しみや困難にある兄弟姉妹を思いやるとき、まさに神の国を体験できるのではないでしょうか。

 

子どものようにならなければ決して天の国に入ることはできない

 さらに、マタイは、神の国で一番偉いのはだれかという弟子たちの質問に、お答えになったイエスのおことばを、次のように伝えています。

「そのとき、弟子たちがイエスのところに来て、『いったいだれが、天の国でいちばん偉いのでしょうか』と言った。そこで、イエスは一人の子どもを呼び寄せ、彼らの真ん中に立たせて、言われた。『はっきり言っておく。心を入れ替えて子どものようにならなければ、決して天の国に入ることはできない。自分を低くして、この子どものようになる人が、天の国でいちばん偉いのだ。わたしの名によってこのような一人の子どもを受け入れる者は、わたしを受け入れるのである。』」(マタイ 18.1-5)

「心を入れ替えて子どものようになる」とは、どのような態度なのでしょうか。まず、「心を入れ替える」とは、イエスが、開口一番叫ばれた「時は満ち、神の国は近づいた。回心して福音を信じなさい。」につながるのでしょうか。

 それは、イスラエルが回心できなかってために、異邦人に福音が伝えられる結果となったとう神の救いの歴史の展開に通じるのかも知れません。

 つまり、日々回心して子どものように自分を低くして、天の御父に全面的に信頼して生きることこそが、神の国に入る基本的な条件と言えるのではないでしょうか。

 また、同じマタイは、イエスが、群衆に洗礼者ヨハネについて語っている場面で、次のようなイエスのおことばを伝えています。

「はっきり言っておく。およそ女から生まれた者のうち、洗礼者ヨハネより偉大な者は現れなかった。しかし、天の国で最も小さな者が、彼よりは偉大である。」(マタイ11.11)

  まさに、神の国の価値基準が、常識的な価値基準とは全く逆になるということでしょうか。たとえば、この世の価値観では、「強いことは、良いことだ」、「多いことは良いことだ」「大きいことは、良いことだ」とするならば、神の国の価値観では、「小さいものこそ大切だ」「弱いものこそ必要だ」「貧しい者こそ、幸いだ」となるのでしょうか。

 とにかく、日々回心して、子どものようになるというまさに福音的生き方に徹することが出来るように共に祈りたいと思います。