年間第26主日・A年(2014.9.28)

「めいめい自分のことだけでなく、他人のことにも注意を払いなさい」

信仰共同を育てるには

 今日の第二朗読は、パウロが獄中から、自分が創立したフィリピ教会へ書き送った手紙からとられています。

 ちなみに、『使徒言行録』(16.9-15)によれば、異邦人の使徒パウロが、ギリシャのマケドニア州を訪れたのは、彼の二回目の宣教旅行(49-52 年ごろ)のときであります。

 その州の第一区の都市が、ローマの植民地都市であるフィリピであります。この都市を訪問しようというきっかけは、夜に次のような幻を体験したことにあります。

「その夜、パウロは幻を見た。その中で、一人のマケドニア人が立って、『マケドニア州に渡って来て、わたしたちを助けてください』と言って、パウロに願った。・・・マケドニア人に福音を告げ知らせるために、神がわたしたちを召されているのだと、確信するに至ったからである。」(使徒 15.9-11)

  したがって、パウロは弟子のテモテとシラスを伴ってフィリピの町に入り、数日間だけ滞在したのであります。そこでの、最初の福音宣教の場面も、次のように報告されています。

 「安息日に町の門を出て、祈りの場所があると思われる川岸に行った。そして、わたしたちもそこに座って、集まっていた婦人たちに話をした。ティアティラ市出身の紫布を商う人で、神をあがめるリディアという婦人も話を聞いていたが、主が彼女の心を開かれたので、彼女はパウロの話を注意深く聞いた。そして、彼女も家族の者も洗礼を受けたが、そのとき、『私が主を信じる者とお思いでしたら、どうぞ、私の家に来てお泊りください』と言ってわたしたちを招待し、無理に承知させた。」(同上 16.13-15)

  このように、パウロが手塩にかけて創立したフィリピ教会へ、恐らくエフェソの獄中から、司牧の熱をこめた手紙をしたためたのであります。

 その内容は、愛と奉仕の共同体を、育てて行くための熱き勧告であります。

「そこで、あなたがたに幾らかでも、キリストによる励まし、愛の慰め、“霊”による交わり、それに慈しみや憐れみの心があるなら、同じ思いとなり、同じ愛を抱き、心を合わせ、思いを一つにして、わたしの喜びを満たしてください。」

  フィリピの教会が、聖霊によって愛の交わりの共同体となることこそが、まさにパウロにとってかけがえのない喜びになるであります。

 また、利己心や虚栄心を捨ててひたすら奉仕し合う共同体にしなさいと勧めます。つまり、教会こそ、奉仕の共同体なので、教会活動はすべて奉仕なのであります。ですから、教会に能力主義とか、権力志向のようなこの世的価値を、一切持ち込まないことが肝心なのです。また、自己主張や、強い者勝ちの論理もすべて排除すべきです。

 さらに、教会こそ多様性の一致を尊重するまさに福音的な共同体にほかなりません。ですから、パウロは、分裂騒ぎを起こしてしまったコリントの教会へ、次のような極めて具体的な勧告を書き送っています。

「体は、一つの部分ではなく、多くの部分から成っています。足が、『わたしは手でないから、体の一部ではない』と言ったところで、体の一部でなくなるでしょうか。もし体全体が目だったら、どこで聞きますか。もし全体が、耳だったら、どこで匂いをかぎますか。そこで、神は、ご自分の望みのままに、体に一つひとつの部分を置かれたのです。・・・目が手に向かって『お前は要らない』とは言えず、また、 頭が足に向かって『お前たちは要らない』とも言えません。それどころか、体の中で他よりも弱く見える部分が、かえって必要なのです。」(コリント一、12.14-22)

  わたしたちの共同体は、似た者同士が集まって仲良しグル―プをつくることではありません。しかも、決して内輪向きの閉鎖集団に成り下がることでもありありません。

 

宣教共同体に成長する

 ところで、教皇フランシスコは、キリスト者は、すべて福音宣教者としての使命があることを、使徒的勧告『福音の喜び』で、次のように強調しておられます。

「洗礼を受けたすべての人に例外なく、福音宣教に駆り立てる聖霊の聖化する力が働いています。神の民が聖なる者であるのは、『信仰において』、間違うことのない油を注がれているからです。つまり、たとえ信仰を表す言葉が見つからなくとも、信じていれば間違わないのです。聖霊は、信者を真理へと導き、救いへと案内してくださいます。・・・

 洗礼を受けたことによって神の民のすべての信者は、宣教する弟子となりました(マタイ 28.19 参照)

  また、当然のことながら、わたしたちは皆、福音宣教者として成長するように招かれています。そして、同時に、よりよい養成を受け、愛を深め、福音のより明確なあかしをすることを望んでいます。」(119-121 項)

  ですから、わたしたちの教会はまさに宣教共同体へと成長しなければならないのです。

 したがって、内輪向きの集団に留まっていることはできません。まさに、出かけて行って派遣されたそれぞれの具体的な場で、福音を宣べ伝えるのです。

それは、特に主日のミサの終わりに受ける派遣のための祝福を、実践することにほかなりません。すなわち「行きましょう、主の福音を告げ知らせるために」派遣されるのです。

 わたしたちの教会は、いままで献身的な外国人宣教師の方々によって宣教され信仰共同体を育ててきました。ですから、これからは、まさに宣教する共同体としての使命を忠実に実践しなければならないのです。

 最後にパウロが、晩年、弟子のテモテに書き送った手紙を紹介したいと思います。

「神の御前で、そして、生きている者と死んだ者を裁くために来られるキリスト・イエスの御前で、その出現とその御国とを思いつつ、厳かに命じます。

みことばを宣べ伝えなさい。折が良くても悪くても励みなさい。・・・忍耐して十分に教えるのです。だれも健全な教えを聞こうとしない時がきます。

・・・しかしあなたは、どんな場合にも身を慎み、苦しみを耐え忍び、福音宣教者の役目に励み、自分の務めを果しなさい。」(テモテ二、4.1-5)

   今週もまた、派遣される家庭、地域、そして職場などで、福音を伝えることが出来るように共に祈りたいと思います。