年間第23主日・A年(2014.9.7)

「わたしの名によって集まるところには、わたしもその中にいる」

教会の真(まこと)の看板は何か

 ヨハネ福音記者によれば、イエスが最後の晩さんの席上、弟子たちに向かってせつせつと告別説教を語ったと報告されています。

 その冒頭は、次のような場面設定で始まります。

「さて、ユダが出て行くと、イエスは言われた。『今や、人の子は栄光を受けた。神も人の子によって栄光をお受けになった。・・・あなたがたに新しい掟を与える。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。互いに愛し合うならば、それによってあなたがたがわたしの弟子であることを、皆が知るようになる。・・・父がわたしを愛されたように、わたしもあなたがたを愛してきた。わたしの愛に留まりまさい。・・・わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい。これがわたしの掟である。友のために命を捨てること、これ以上に大きな愛はない。』」(ヨハネ 13.31,34-35;15.9-13)

  あたかもご自分の遺言のように、イエスの弟子たちが育てなければならない愛の共同体である教会にとってまさに核心に触れるおことばにほかなりません。

 ですから、たとえ立派な聖堂があっても、或は様々の活動や行事を行っても、若し互いに愛し合っていないならば、そこに器があっても中味が空っぽと言わざるを得ません。まして、世間の人々に対して、教会こそイエスの弟子たちの共同体であると、あかしすることは到底できないのであります。

 したがって、パウロも奉仕と一致のキリストの体である教会をどのように育てて行くべきかを、これまた極めて具体的に、次のように書き送っています。

「そして、ある人を使徒、ある人を預言者、ある人を福音宣教者、ある人を牧者、教師とされたのです。こうして、聖なる者たちは奉仕の業に適した者とされ、キリストの体を造り上げてゆき、ついには、わたしたちは皆、神の子に対する信仰と認識において一つのものとなり、成熟した人間になり、キリストの満ち溢れる豊かさになるまで成長するのです。・・・ですから、愛に根ざして真理を語り、あらゆる面で、 頭(かしら)であるキリストに向かって成長していきます。キリストにより、体全体は、あらゆる節々が補い合うことによってしっかり組み合わされ、結び合わされて、おのおのの部分は分に応じて働いて体を成長させ、自ら愛によって造り上げられてゆくのです。」(エフェソ 4.11-16)

 これこそ、異邦人の使徒として初代教会においてコリントの教会を始め、数々の教会を創立しただけでなく、それぞれの共同体が信仰において成長できるように、勢力的に働いたパウロのまさに熱のこもった力説であります。

 

兄弟的忠告は必要なのか

 ところで、今日の福音ですが、イエスは、共同体において必要なまさに兄弟的忠告を行う具体的な手順を教えておれます。

「兄弟があなたに対して罪を犯したなら、行って二人だけのところで忠告しなさい。言うことを聞き入れたら、兄弟を得たことになる。」

  ちなみにパウロはキリスト者のことを「聖なる者」(ローマ 1.7 参照)と呼んでいますが、それは、洗礼によって聖なるキリストに結ばれたからにほかなりません。

 しかしながら、教会は、同時に罪人の共同体でもあります。ですから、教会の中で、罪によって相手を傷つけてしまうこともあり得るのではないでしょうか。そこで、大切なのは、まさに兄弟的愛をもって罪を犯した相手を赦すだけでなく、忠告することも忘れてはいけないのであります。そうすることによってまさに「兄弟を得る」のです。つまり、共同体にいては、お互いの兄弟的交わりと一致を何よりも大切にしなければならないからです。

 すでにパウロが勧めているように奉仕の共同体である教会において、わたしたちは人間的に成熟してキリストの背丈にまで成長していく連帯責任をお互いが担っているからにほかなりません。ですから、共同体においては、なあなあ主義や、事勿れ主義は通用しません。

 そこで、イエスはさらに次のように勧めておられるのです。

「聞き入れなければ、ほかに一人か二人、一緒に連れていきなさい。すべてのことが、二人または三人の証人の口によって確定されるようになるためである。」

  実は、マタイの福音においては、このくだりの直前に、「迷い出た羊」のたとえが語られています。つまり、「迷わずにいた九十九匹を山に残して」(マタイ18.12参照)「迷い出た一匹の羊」(同上)を探し出す羊飼いのイメージで、罪人が「一人でも滅びることは、あなたがたの天の父の御心ではない。」(同上 18.14)と語られています。ですからこのたとえの具体化がこの兄弟的忠告であると言えましょう。

 したがって、最後の手段として、今度は、「教会に申し出なさい。」と勧告なさるのであります。とにかく、この一連の勧めにおいては、「忠告する」が、キーワードになっていますが、この言葉にはもともとは「光にさらす」と言う意味があります。つまり、ここで言われている「忠告」とは、罪人の滅びを望まない神の光に照らし、相手の心を神への思いへと向けさせることであります。(雨宮 慧『主日の聖書解説<A 年>』288 頁)

 ですから、自分の思いで相手を裁くことではありません。

 したがって、「地上でつなぐことは、天上でもつながれ、地上で解くことは、天上でも解かれる」のであります。

 つまり、教会が下す判断が、天の父の判断を表しているのは、教会のこの地上における権威は、人間の権威によるのではなく、教会の只中におられるイエスご自身と、天の御父の権威に由来すらからにほかなりません。(雨宮 慧同上参照)

 最後に、共同体の真ん中のおられるイエスと共に祈ることの大切さを強調なさいます。

「どんな願い事であれ、あなたがたのうち二人三人が地上で心を一つにして求めるなら、わたしの父はそれをかなえてくださる。二人または三人がわたしの名によって集まるところには、わたしもその中にいるのである。」

   今週もまた、わたしたちの共同体をしっかり育てることができるよう共に祈りたいと思います。