年間第22主日・A年(2014.8.31)

「自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい」

 

キリスト者は、みなイエスの弟子となる

 今日の福音も、先週に引き続き、異邦人の町、ヒィリポ・カイサリア地方が舞台となっています。すでに確認したように、わたしたちも、まさに異邦人の只中でこそ、イエスに対する信仰告白をし、イエスの弟子として、イエスを人々に伝えながら、生涯かけて付き従う道を選んだのであります。

 そこで、イエスは、弟子としての生き方の基本をはっきりと教えてくださいます。

「わたしについて来たい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いな

さい。」

  まず、イエスは単刀直入に、「自分を捨てなさい」と命じられます。

 ここで言われている「捨てる」とは、もともとは「否定する」と言う意味であります。

 ですから、自己主張ではなく、あくまでも自分を無にしなければならないのであります。

 この基本的条件は、すでにイエスご自身がその模範を示してくださいました。それは、古い賛美歌の中で、次のように美しくうたい継がれて来ました。

「キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、 僕(しもべ)の身分になり、人間と同じ者になられました。

 人間の姿で現れ、へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした」(フィリピ 2.6-8)

 ですから、イエスは、まず、わたしたちに「へりくだって神に聞き従う」生き方を自らの模範によって、まさに命がけで教えてくださったのでないでしょうか。

 

神の思いに従う

 実は、「自分を捨てなさい」と命じられた、直前ですが、イエスが、初めて正式に弟子たちに向かって、エルサレムで何が待ち受けているのか、まさにあからさまに打ち明け始められたのであります。つまり、

「イエスは、ご自分が必ずエルサレムに行って、長老、祭司長、律法学者たちから多くの苦しみを受けて殺され、三日目に復活することになっている、」と。

 すなわち、イエスのエルサレムにおける十字架刑による処刑の責任者は、まず、ユダヤ教指導者であることを、最初の受難予告で明確に示されたのでありあります。しかも、イエスの受難と死と復活は、神のご意志を実現するための必然であることを、「・・・ことになっている」と、始めて強調なさったのであります。

 ところが、なんと、ペトロが弟子たちを代表して、 「イエスをわきへお連れして、いさめはじめた。」と言うのです。

「主よ、とんでもないことです。そんなことがあってはなりません。」

 そこで、イエスは、彼をとっさに厳しく叱りつけました。

「サタン、引き下がれ。あなたはわたしの邪魔をする者。神のことを思わず、人間のことを思っている。」と。

 ペトロが悪魔になったのではなく、彼の考えがまさに神に逆らっているからにほかなりません。なぜなら、ペトロは、「神のことを思わず、人間のことを思っている」からなのであります。

 つまり、ペトロは自分を捨て切れず、まさに自分の思いで判断したのではないですか。

 なぜなら、自分のそれこそ人間的な考え、価値観、判断の基準などをかなぐり捨てて、神の思い、神のご意志、神の御計画に全面的に従うのが、信仰の生き方にほかならないからであります。

 実は、この基本的な信仰の生き方を、パウロは今日の第二朗読で、次のように強調しています。

「あなたがたは、この世に倣ってはなりません。むしろ、心を新たにして自分を変えていただき、何が神の御心であるか、何が善いことで、神に喜ばれ、また完全なことであるかをわきまえるようになりなさい。」

  一方、ヨハネも「世」というキーワードで次のように、強調しています。

 「世も世にあるものも、愛してはいけません。世を愛する人がいれば、御父への愛はその人の内にありません。なぜなら、すべて世にあるもの、肉の欲、目の欲、生活のおごりは、御父から出ないで、世から出るからです。世も世にある欲も、過ぎ去っていきます。しかし、神の御心を行う人は永遠に生き続けます。」(ヨハネ一、2.15-17)

 

わたしのために命を失う者は、それを得る

  次に、イエスは、続けて極めて逆説的な表現で、次のように説明しておられます。

「自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのために命を失う者は、それ

を得る。」

  まず、「自分の命を救いたい」と言うときの命は、まさにこの世での命であり、それは自分を捨てないであくまでも自分の我を通そうとする生き方にほかなりません。ですから、結果的に永遠のいのちを失うことになるのであります。

 ところが、若し、イエスのためにこの世の命をささげるならば、必ず永遠のいのちを勝ち取ることができるのであります。それは、まさに信仰のために殉教することにほかなりません。つまり、日々自分を捨て、自分を否定してひたすらイエスに従う生き方の実践ではないでしょうか。

 ですから、パウロは自分の信仰体験を振り返り、次のような極めて明解な説明をしています。

「わたしは主キリスト・イエスを知ることのあまりのすばらしさに、今では他(た)の一切を損失と見ています。キリストのゆえに、わたしはすべてを失いましたが、それらを塵芥(ちりあくた)と見なしています。キリストを得、キリストの内にいる者と認められるためです。」(フィリピ 3.8-9)

  今週も、この信仰の生き方に徹することができるよう共に祈りたいと思います。