年間第 21 主日・A 年(2014.8.24)

「信徒は、教会そのものである」

教会の自己理解の聖書的見直し

 今日の福音の、つまり、「あなたは、ペトロ。わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てる。陰府の力もこれに対抗できない。」と言うくだりですが、ペトロの首位権すなわちローマ教皇のローマ・カトリック教会における最高の権威と指導権の聖書的根拠にした箇所にほかなりません。

 ですから、1869 年から 1870 年にわって開かれた「第一バチカン公会議」において、「ペトロの首位権の後継者は、ローマの司教である。」と、正式に定義したのであります。

 したがって、「第二バチカン公会議」に至るまで、教会はあたかもピラミットのようにローマ教皇を頂点に、枢機卿、大司教、司教、司祭そして底辺に平信徒が連なるまさに堅固な一枚岩の組織・制度であるという自己理解を定着させて来ました。ですから、教会はまさに聖職者中心主義に傾き、信徒の教会と世界における地位と使命は、十分に評価されて来なかったと言わざるを得ません。

 ところが、幸いにして 50 年前ですが、まる四年間つまり、1962 年の 10 月から 1965 年の12 月にかけて、まさに教会の歴史的大改革であった第二バチカン公会議が聖ヨハネ二十三世によって開催されたであります。

 ですから、そこで教会の自己理解を聖書的に根本的に切り替えたることが出来たのであります。

 その実りである『教会憲章』の第一章で、「教会の神秘について」続いて第二章で、「神の民について」の説明が詳しく述べられています。

 ちなみに、この憲章が出来上がっていくプロセスを、少し振り返ったみたいと思います。実は、第一会期において、最初に提出された草案に対して、重大な異議が申し出されたことであります。それは、最初に出された草案がいかにも旧態以前とした内容で、現代の教会のイメージには、全く相応しくないというのが、主な理由でした。

 したがって、全く新しい草案に全面的に書き直すことが、決議されたのであります。しかも、その改訂される草案に盛り込む新しい教会論の輪郭までもが、提案されたのであります。

 それは、教皇を頂点としたピタミット型の聖職者中心主義のイメージではなく、「神の民」としての聖書的イメージを取り戻し、教会は、すべての信者(信徒、修道者、聖職者)の共同体としての「神の民」であることを、明確に示すべきという主張であります。

 したがって、司教職こそは、神の民の一致の要である奉仕職であることを、改めて確認したのであります。

 ですから、全面的に書き直された草案でも、第一章「教会の神秘について」、次に二章は「位階的仕組み、特に司教職について」であり、第三章が「神の民と信徒について」という順序だったのですが、いや、まず、「神の民について」を二章にして、「司教職について」を、第三章にすべきとの動議が、討論の前に出され承認されたという極めて象徴的なパップニングがあったのであります。

 

あなたがたが教会そのものである

  ところで、このような根本的な教会のイメージ・チェンジは、少なくとも教皇の教えに於いて、すでに 1940 年代に強調されていたのであります。

 すなわち、時の教皇ピオ十二世は、1946 年 6 月 22 日に行った「新枢機卿への演説」において、次のような極めて重要な発言をなさっておられるであります。

「信者、より正確には信徒は、教会の最前線に立っています。信徒によってこそ、教会は人間社会にいのちを与える源となります。ですから、信徒は、自分たちが単に教会の一員であるということだけではなく、まさに教会そのものであることを、今まで以上に、はっきりと自覚しなければなりません。つまり、すべての者の頭(かしら)である教皇と、交わりのうちに教皇と一致した司教たちに導かれた地上の信者の共同体、これが教会なのです。」(『教皇聖ヨハネ・パウロ二世使徒的勧告・信徒の召命と使命』9 項)

  また、仙台教区が今年度から導入した「地区制度」についても、教皇聖ヨハネ・パウロ二世は、すでに 1980 年代に次のように強調なさっておられます。

「現代における教会の課題があまりにも大きいために、小教区は孤立していては力がありません。・・・小教区を刷新し、活動のうえで一層確実な効果をあげるために、同じ地区にある複数の小教区間にいろいろな協力の形が、制度的にも育てられなければなりません。」(同上使徒的勧告 26 項)

 

異教徒の只中での信仰告白が、宣教である

   ここで再び、今日の福音の舞台に戻ってみたいと思います。

 つまり、ペトロが、弟子たちを代表して、イエスに対する信仰告白をした場所です。

「イエスは、フィリポ・カイサリア地方に行ったとき、・・・言われた。『それでは、あなたがたはわたしを何者だというのか。』シモン・ペトロが、『あなたはメシア、生ける神の子です』と答えた。

すると、イエスはお答えになった。『シモン・バルヨナ、あなたは幸いだ。あなたにこのことを現したのは、人間ではなく、わたしの天の父なのだ。…』」

  今日(きょう)の舞台は、イエスが通常活躍なさったガリラヤ地方ではなく、なんと多くの異邦人が住んでいるフィリポ・カイサリア地方だったのであります。

 このフィリポ・カイサリアは、ローマの属州シリアに近いパレスティナの北端に位置する町で、ヨルダン川の水源は、この地から始まります。紀元前 20 年に、ローマ皇帝が、この地をユダヤの王ヘロデに与えたというのです。ですから、ヘロデ王は、お返しに、その町に皇帝のために神殿を建てています。とにかく、この町には、皇帝を神に祭り上げる神

殿のほか、ギリシャの神々を祭る数々の神殿が並んでいたのです。ですから、イエスが、わざわざこの地方を選んで、弟子たちに信仰告白をさせたのは、福音は、ユダヤ社会を超えてまさに全世界に伝えるべきことを切に願っていることに気づいて欲しかったのではないでしょうか。

 ですから、イエスは、天に昇られる前に、弟子たちに厳かに命じられました。

「わたしは天と地の一切の権能を授かっている。だから、あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。」(マタイ 28.18-20)

  ちなみに、教皇フランシスコは、最初の使徒的勧告の中で、次のように強調しておられます。

「洗礼を受けたすべての人には例外なく、福音宣教に駆り立てる聖霊の聖化する力が働いています。・・・洗礼を受け、神の民のすべてのメンバーは、宣教する弟子となりました。」

   このミサの終わりに、また、わたしたちは、まず、それぞれの家庭に、さらに、地域に、そして職場に、まさに福音を伝えるために派遣されます。