「神の救いから誰も排除されない」
旧約時代における異邦人の救いへの招き
早速、今日の第一朗読ですが、便宜上第三イザヤといわれる箇所(56〜66 章)からとられています。
ちなみにこの第三イザヤは、イスラエルが 50年以上にわたって体験したバビロンにおける屈辱の捕囚から、ペルシャの王キュロスによって解放され、やっと故国に戻ることが出来た時代に書かれたものと考えられます。
しかも、今日の箇所は、なんと神の救いが確実に異邦人にも及ぶことを美しく描いております。
「わたしの救いが実現し、わたしの恵みが現れるのは間近い。
主のもとに集まって来た異邦人が
主に仕え、主の名を愛し、その僕となり
安息日を守り、それを汚すことなく、わたしの契約を固く守るなら
わたしは彼らを聖なるわたしの山に導き
わたしの祈りの家の喜びの祝いに連なることを許す。
・・・
わたしの家は、すべての民の祈りの家と呼ばれる。」
自分たちだけが神に選ばれたと言う選民意識によって、神の救いが、イスラエルの枠を超えて広くすべての民に開かれているという普遍的自覚はほとんどなかったと思われます。
しかしながら、捕囚地から 50 年ぶりに愛する故国に戻ることができたとき、なんと、神の救いは、広く異邦人にまで広がって行くという神の新しいご計画が、預言者によって語られ始めたというのであります。
ところで1549 年 8 月 15 日に、聖フランシスコが率いるスペイン人のイエズス会士の宣教師たちが鹿児島に上陸しました。まさに東の果てにあるジパングに始めて福音が伝えられた記念すべき日であります。ですから、すでに 465 年前に、救い主イエス・キリストの福音は、この日本にまでやっと到達したのであります。
したがって、このイザヤの預言は、まさに日本においても確実に実現したと言えるのではないでしょうか。
異邦人のための使徒パウロ
次に、今日の第二朗読ですが、異邦人のために使徒とされたパウロの体験を要約しております。
実は、パウロが回心して異邦人の使徒としての召命を受けたのは、イエスが復活なさった後のことであります。とにかく、『使徒言行録』は、パウロの劇的な回心物語を、次のように感動的に伝えています。
「さて、サウロは、なおも主の弟子たちを脅迫し、殺そうと意気込んで、大祭司のところへ行き、ダマスコの諸会堂あての手紙を求めた。それは、この道に従う者を見つけ出したら、男女を問わず縛り上げ、エルサレムへ連行するためであった。
ところが、サウロが旅をしてダマスコに近づいたとき、突然、天からの光が彼の周りを照らした。サウロは、地に倒れ、『サウル、サウル、なぜ、わたしを迫害するか』と呼び掛ける声を聞いた。
『主よ、あなたはどなたですか』というと、答えがあった。
『わたしは、お前が迫害しているイエスである。起きて町に入れ。そうすれば、お前のなすべきことが知らされる。』・・・
サウロは、地面から起き上がって、目を開けたが、何も見えなかった。人々は彼の手を引いてダマスコに連れて行った。サウロは三日間、目が見えず、食べも飲みもしなかった。・・・
すると主は、言われた。『行け。あの者は、異邦人や王たち、またイスラエルの子らにわたしの名を伝えるために、わたしが選んだ器である。わたしの名のためにどんなに苦しまなければならないかを、わたしは彼に示そう。』」(9.1-16)
このようにして教会の迫害者から異邦人の使徒に見事に変身したパウロは、自分の死を意識した晩年、愛する弟子テモテに、最後の勧めを荘厳に手紙にしたためています。
「わたしは、神の前で、その現れとその支配を思いつつ、あなたに厳かに命じます。み
ことばを宣べ伝えなさい。善いときにも、悪いときにも、常にこれに専念しなさい。忍耐強く絶え間なく教えて、咎め、戒め、励ましなさい。人々が、健全な教えを聞こうとしない時が、必ず来ます。・・・
しかし、あなたは、どんな場合にも、身を慎み、苦しみを耐え、福音を宣教する者としての役目を果たして、自分の任務を全うしなさい」(テモテ二、4.1-5)
婦人よ、あなたの信仰は立派だ
最後に今日の福音ですが、カナンの異邦人の女の見事な信仰体験を語っています。
「しかし、女は来て、イエスの前にひれ伏し、『主よ、どうかお助けください。』と言った。イエスが、『子どもたちのパンを取って、子犬にやってはいけない』とお答えになると、女は言った。『主よ、ごもっともです。しかし、子犬も主人の食卓から落ちるパン屑はいただくのです。』
そこで、イエスはお答えになった。『婦人よ、あなたの信仰は立派だ。あなたの願い通りになるように。』その時、娘の病気はいやされた。」
先日、ラジオ番組で、ある大学の名誉教授が、近年、継続している学生の平和を学ぶ体験学習について語っておりました。彼は、戦争を知らない若い学生たちに、なんとか戦争の残酷さを体験してもらおうと、毎年、太平洋戦争での激戦地に数名の学生を連れて行き、現地の戦争被害者たちの生の声を聞かせています。そこで、戦争体験のない若者たちは、まず、体調を崩してしまうほどの強烈なショックを受けてしまうそうです。ですから、帰国してからも一人ひとりと面接を繰り返し、精神的に立ち直っていくために奉仕しているそうです。そこで、聞き手のアナウンサーが、その教授に最後の質問をしました。
「そのような貴重な体験をした学生たちは、クリスチャンになったのですか。」
教授は答えました。「いや、彼らはクリスチャン以上にクリスチャンです。」
ですからたとえ、洗礼を受けなくても、キリストの心を身に着けるなら、必ず救われるのではないでしょうか。
あなたの信仰は立派だと言われるように、わたしたち一人ひとりが、さらに共同体ぐるみで立派な信仰を育てることが出来るように共に祈りたいと思います。