年間第18主日・A年(2014.8.3)

「すべての人が食べて満腹した」

 

主の口から出るすべてのことばによって生きる

 今日の第一朗読は、便宜上第二イザヤと呼ばれる箇所(イザヤ 44-55)の最後の章からとられています。

 テーマは、「飢え渇く者へのみことばの招き」であります。つまり、人のお腹の飢え渇きではなく、魂の飢え渇きを、満たすものは、食物ではなく、まさに神のいのちのことば以外にはないということです。注意深く読み返してみましょう。

「渇きを覚えている者は皆、水のところに来るがよい。」

 ちなみに、ここで言われている「水」とは、ユダヤ教の伝統では、神の教え、つまり神のことばの象徴としての「水」にほかなりません。

 しかも、「銀を持たない者も来るがよい」、ですから、貧乏人もお金を払わないで確実に手に入れることができるもの、それは、とりもなおさず、神のいのちのことばなのです。

 実は、この箇所が書かれた時代背景を見てみますと、50年以上にわたる屈辱の捕囚から解放され、ようやく故国に帰れることができるという希望の時の到来であります。けれども、捕囚という生活スタイルに慣れてしまった人々は、工作資金を使ってまでも、捕囚地に残る工面をしたそうです。

 とにかく、特に罪からの解放をもたらす神のことばを、獲得するために、一銭も払う必要はありません。ですから、第二イザヤは警告します。

「なぜ、糧にならぬもののために銀を払い飢えを満たさぬもののために労するのか。」

 ところで、イエスが、ヨルダン川で、洗礼者ヨハネから洗礼を受けた時、「天が開かれ、聖霊が鳩のように目に見える姿でイエスの上に降(くだ)った」(ルカ 3.22)のであります。

 そして、その聖霊に導かれて、なんと今度は荒れ野で 40 日間の長きにわたって、悪魔から誘惑を三つ受けられました。

 とにかく、40 日間の断食のお蔭で、飢えは最高張に達していました。そこで、狡猾な悪魔は、イエスを巧に誘惑します。

「悪魔は言った。『神の子なら、この石にパンになるように命じたらどうだ。』イエスは、『<人はパンだけで生きるものはない。>と書いてある』とお答えになった。」(同上 4.3-4)

 ここで、イエスは悪魔の誘惑に打ち勝つために、『申命記』の 8 章 3 節を引用なさったのですが、本文では「人は主の口から出るすべてのことばによって生きることをあなたに知らせるためであった。」と続いています。

 ですから、今日の第一朗読箇所と、見事につながるのであります。

「わたしに聞き従えば

良いものを食べることができる。

あなたたちの魂はその豊かさを楽しむであろう。

耳を傾けて聞き、わたしのもとにくるがよい。

聞き従って、魂に命を得よ。」

 

すべての人が食べて満腹した

 次に、今日の福音ですが、確かに群衆が夕方になって空腹を覚え始めたことがが、奇跡をもたらす具体的なきっかけであったことは、間違いありません。

「夕暮れになったので、弟子たちがイエスのそばに来て言った。『ここは人里はなれた所で、もう時間もたちました。群衆を解散させてくだい。そうすれば、自分で村へ食べ物を買いに行くでしょう。』

 とにかく、弟子たちの提案は、まさに合理的で極めて適切なものだったと言えます。まず、弟子たちは、大群集の飢え渇きを面倒見きれません。また、すでに夕暮れになっていたので、まず、群衆を解散すべきです。そして、めいめいが、自分で食べ物を調達すべきです。恐らく、まだ店も開いているので、食糧は確保できます。とにかく、「自分のことは自分でやりなさい」とう原則です。

 しかしながら、イエスの発想は全く違ったのです。

「行かせることはない。あなたがたが彼らに食べる物を与えなさい。」

  人間をとる漁師になった弟子たちですが、まさか、群衆の食事の世話など全く想定外のことです。

 しかも、弟子たちがどうにか集めることができたのは、たった「パン五つと魚二匹しかありません。」

 ところが、イエスは、「それをここに持って来なさい」と命じられたのです。しかも、「群衆には草の上に座るようにお命じになった。」のです。ちなみに、マルコはその時の状況をもっと詳しく、次のように説明しています。

「そこで、イエスは弟子たちに、皆を組に分けて、青草の上に座らせるようにお命じになった。人々は、百人、五十人ずつまとまって腰を下ろした。」(マルコ 6.39-40)

 それまでは、まさに烏合の衆に過ぎなかった群衆を、そこで、お互いに分かち合いができる共同体へとみごとに切り替えられたということではないでしょうか。

 ですから、同じマルコは、その様子を次のように適格に描写しています。

 「イエスは、五つのパンと二匹の魚を取り、天を仰いで賛美の祈りを唱え、パンを裂いて、弟子たちに渡しては配らせ、二匹の魚も皆に分配された。すべての人が食べて満腹した。」(同上 6.41-43)

  たった五つのパンと二匹の魚しかなかった厳しい状況において、共同体が形成され、つまり、必要なものはすべて分かち合い、お互いを面倒見合うという相互扶助が肝心なのです。

 以前、聞いた話ですが、インドシナ戦争の最中(さなか)、大勢の難民が、キャンプに収容されたのですが。そこでの食糧事情は最悪でした。ですから、特に子どもたちが、真っ先に犠牲となり、まさに、骨と皮ばかりにやせ細っていました。

 ところが、この難民の子どもたちの悲惨な様子を、テレビの特別報道番組によっての当たりにした三歳の幼子が、思わずテレビに向かってなんと食べかけていたおやつを「これ、食べなさいよ!」と差し出したそうです。そして、そのお孫さんのとった行動を傍で見ていたおじいちゃんが一大決心をしました。「おらいの孫は、なんと優しい心を持っていることか。それに比べて俺は、ただテレビを眺めているだけで、何にもしなかったではないか。よし、老後のために蓄えていた一千万を、そっくり難民救済のために寄付しよう。そこで、匿名で、ただ一言「孫の心より」というメモを添えて関係機関に送金したそうです。まさに、今日的パンの奇跡ではないでしょうか。

 これっぽっち何の役にもたたないと思われるものや、行動も、分かち合うことによって大勢の人たちの助けなるほどに、その輪が必ず広がって行くのです。なぜなら、その分かち合いのど真ん中でイエス自身が働いてくださるからです。

 今週も、この分かち合いの輪の中に入ることができるように共に祈りたいと思います。