年間第17主日・A年(2014.7.27)

「持ち物をすっかり売り払って」

神の国の発見

 今日もまた、イエスは、先週に引き続いて、たとえをもちいて神の国について極めて重要な説明をなさいます。

「天の国は、次のようにたとえられる。畑に宝が隠されている。見つけた人は、そのまま隠しておき、喜びながら帰り、持ち物をすっかり売り払って、その畑を買う。」

  ちなみに、弟子たちが、イエスの招きに答えて弟子となったときにも、まさに「一切をすててイエスに従った」(ルカ 5.11)のではなかったですか。神の国に入ること、すなわちイエスの弟子になることが、確かに決定的な人生の体験なので、まさにイエス以外のすべてを捨てるあるいは放棄することができるのではないでしょか。

 ですから、イエスは、はっきりと宣言なさいました。

「わたしについて来たい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。」(マタイ 16.24)

 実は、パウロの神の国に入る体験も、それまで価値あるものと思い込んでいたものをすべて捨てるだけでなく、むしろ一切がちり芥のように思えるようになったことを、見事に次のように信仰告白しています。

「しかし、わたしにとって有利であったこれらのことを、キリストのゆえに損失と見なすようになったのです。

  そればかりか、わたしの主キリスト・イエスを知ることのあまりの素晴らしさの故に、今では他の一切を損失と見ています。キリストの故に、わたしはすべてを失いましたが、それらを塵芥(ちりあくた)と見なしています。それはキリストを得るためであり、わたしがキリストに結ばれた者として認められるためです。」(フィリッピ 3.7-9)

 とにかく、今日のたとえでは、「喜びながら帰り、持ち物をすっかり売り払って、その畑を買う」ことが、強調されています。

 では、わたしたち自身の体験として、まさにイエスに従うこと、しかも神の国に入ることが、他のものをかなぐり捨てることが出来るほどの、とても素晴らし出来事と果してなっているのでしょうか。

 あるいは、まだ自分自身に執着しているだけでなく、この世の富や名声にこだわってはいないでしょうか。さらに、依然として、この世の価値観にがんじがらめになってはいないでしょうか。

 

神は、すべてが益となるように働かれる

  ですから、実に、わたしたちが神の国のすばらしさつまり、イエスに従うことのこの上ない価値を実感していないなら、自分を捨てるのは、全く不可能と思います。つまり、たとえ、口先で、「あなたを置いて、だれのところへ行きましょう」と信仰告白をしても、キリスト以外のさまざまなものにしがみついているという生き方を、変えたくないというのが、本音なのでしょうか。

 ところで、復活のイエスとの決定的な出会いを体験をしたパウロは、今日の第2朗読で、まさに核心に触れる説明をしています。(フランシスコ会訳の訳をあえて引用します。)

「神(または霊)は、すべてにおいて益となるように、神を愛する人々とともに(あるいは神を愛する人々のために、すべてが益となるように)お働きになる」

 別な言葉で説明するならば、神はすべてを善きに計らってくださるというまさに揺るぎない摂理信仰にほかなりません。

 具体例としてアブラハムの体験を振り返って見たいと思います。それは、彼の人生における最大の試練つまり愛する一人息子イザクをなんと<いけにえ>としてささげよという残酷な命令を受けたときであります。『創世記』は、この試練と神の摂理の物語を、淡々と語っています。すこし長い引用になりますが、ドラマの展開を追ってください。

「神は、『アブラハムよ』と呼びかけ、彼が、『はい』と答えると、神は命じられた。

 『あなたの息子、あなたの愛する独り子イサクを連れて、モリヤの地に生きなさい。わたしが命じる山の一つに登り、彼を焼き尽くす献げ物としてささげなさい。

 次の朝早く、アブラハムはロバに鞍を置き、献げ物に用いる 薪(たきぎ)を割り、二人の若者と息子イサクを連れ、神の命じられた所に向かって行った。・・・

 アブラハムは、焼き尽くす献げ物に用いる 薪を取って、息子イサクに背負わせ、自分は火と刃物を手に持った。二人は一緒に歩いて行った。

 イサクは父アブラハムに、『わたしのお父さん』と呼び掛けた。彼が、『ここにいる。わたしの息子よ』と答えると、イサクは言った。『火と薪はここありますが、焼き尽くす献げ物にする小羊はどこにいるのですか。』

 アブラハムは答えた。

 『わたしの子よ、焼尽くす献げ物の小羊はきっと神が備えてくださる。』

 神が命じられた場所に着くと、アブラハムはそこに祭壇を築き、薪を並べ、息子イサクを縛って祭壇の薪の上に載せた。そしてアブラハムは、手を伸ばして刃物を取り、息子を屠ろうとした。・・・

 (すると)み使いは言った。

 『その子に手を下すな。何もしてはならない。あなたが神を畏れる者であることが、今、分かったからだ。あなたは、自分の独り息子すら、わたしにささげることを惜しまなかった。

 アブラハムは目を凝らして見回した。すると、後ろの木の茂みに一匹の雄羊が角をとられていた。アブラハムは行ってその雄羊を捕まえ、息子の代わりに焼き尽くす献げものとしてささげた。

 アブラハムは、その場所をヤーウェ・イルエ(主は備えてくださる)と名付けた。」

(創世記 22.1-14)

  神の国に入るために、まさにアブラハムのすべてであったイサクを、いとも潔くささげることができたのは、アブラハムの神の摂理に対する全面的な信頼があったからにほかなりません。

 わたしたちもアブラハムに倣って、すべてを捨てて神の国に入ることが出来るよう共に祈りたいと思います。