年間第16主日・A年(2014.7.20)

「神の国に蒔かれた種」

神の国は近づいた

 恐らく、イエスは、ナザレでの大工の息子としての私生活を終え、30歳でそれこそ出家し、人々の前にその姿を現したと思われます。

 そのとき、群衆に向かって、開口一番切々と語られました。

 「(この)時は満ちた、そして神の国は近づいた。回心せよ。そして福音を信ぜよ。」(マルコ 1.15)

まさに、この「神の国」こそ、イエスの説教のメイン・テーマにほかなりません。ところが、この「神の国」については、たとえを用いて説明なさるのであります。ですから、今日の箇所では、種まきのたとえが語られています。

「天の国は、次のようにたとえられる。ある人が、良い種を畑に蒔いた。人々が眠っている間に、敵が来て、麦の中に毒麦を蒔いて行った。芽が出て、実ってみると、毒麦も現れた。僕たちが、『では、行って抜き集めておきましょうか。』と言うと、主人は言った。『いや、毒麦を集めるとき、麦まで一緒に抜くかもしれない。刈り入れまで、両方とも育つままにしておきなさい。』」

  イエスは、ヨセフから、一通り大工の手ほどきは受けたと考えられます。しかしながら、イエスのたとえには、農業に関することが多く語られています。つまり、イエスは、当時のパレスチナ地方の農業については、十分に理解しておられました。

 ですから、神の国を、最初に種蒔きのたとえを用いて説明なさったのは、先週の朗読箇所であります。そこで、イエスは、神の国の完成に参加できる様子を、次のように強調なさいました。

 「また、ほかの種は良い土地に落ち、生えは出て、百倍の実を結んだ。・・・よい土地に落ちたのは、立派な善い心でみことばを聞き、よく守り、忍耐して実を結ぶ人たちである。」(ルカ 8.8,15)

  ところが、今日の福音は、なんと、「敵が来て、麦の中に毒麦を蒔いて行った」と、唐突に説明されています。

 確かに、いつの時代にも、あたかも毒麦の種のような様々の悪がこの世界のただ中にばら撒かれています。

 つい先日にも、ウクライナ上空で、マレーシア航空の、旅客機が無残にも撃墜されました。また、小学五年生の女の子が、もう二週間も行方不明です。まさに、日常茶飯のように「敵が来て、麦の中に毒麦を蒔いて」いるのではないでしょうか。

 ですから、この世からすべての悪を直ちに取り去って欲しいと願いたくなります。けれども、イエスは、忠告なさいます。「いや、毒麦を集めるとき、麦まで一緒に抜くかもしれない。刈り入れまで、両方とも育つままにしておきなさい。」

  とにかく、パレスチナでは、しばしば麦の中に混じって毒麦も一緒に育ってしまうそうです。特に、それらは初めのうちはよく似ているので、見分けることがとても難しいのです。しかも、成長するにしたがってお互いに根がからんでしまうので、毒麦だけを抜くのは至難の業なのです。

 ですから、この世には依然として多くの悪が存在し続けるにもかかわらず、神の国それらに妨害されずに、確実に完成していくという確信にほかなりません。

 

成長するとどの野菜よりも大きくなり

 ちなみに、今日の朗読で省いた箇所ですが、次のように神の国の完成の力強さが強調されています。

「天の国はからし種に似ている。人がこれを取って畑に蒔けば、どんな種よりも小さいのに、成長するとどの野菜よりも大きくなり、空の鳥が来て枝に巣を作るほどの木になる。」

  人々の心の中に蒔かれる福音の種は、確かに目立たない小さなものにすぎないかもしれません。けれども、神の国は、あくまでも神ご自身の全能の力によって必ず完成されることを信じることが肝心なのであります。

 ですから、わたしたちは希望と勇気とをもって福音の種を蒔き続けることができるのです。

 ところで、教皇フランシスコは、つい先日出版された最初の使徒的勧告によって次のように励ましておられます。

「善は、つねに広がっていくものです。真理や美に関するすべての 真(まこと)の体験は、自ずから広がりを求め、深い体験をした人はだれでも、他の人の必要に対して敏感になります。伝えることによって、善は根づき、発展します。・・・聖パウロが次のように語っているのは不思議ではありません。

『キリストの愛がわたしたちを駆り立てている。』(二コリント 5.14)

『福音を告げ知らせないなら、わたしは不幸なのです。』(一コリント9.16)(使徒的勧告「福音の喜び」9 項)

 とにかく、神の国が必ず神によって完成することを信じているので、わたしたちも、まさに福音に根差した楽観主義者になれるのではないでしょうか。

 最後に福音の種を命懸けで特に異邦人の心に蒔き続けたパウロの心意気を引用したいと思います。

「神に対する悔い改めと、わたしたちの主イエスに対する信仰とを、ユダヤ人にもギリシャ人にも力強く証しして来たのです。そして今、わたしは??霊“に促されてエルサレムへ行きます。そこでどんなことがこの身に起こるか、何も分かりません。ただ、投獄と苦難とがわたしを待ち受けているということだけは、聖霊がどこの町でもはっきりと告げてくださっています。しかし、自分の決められた道を走りとおし、また、主イエスからいただいた、神の恵みの福音を力強く証しするという任務を果たすことができさえすれば、この命すら決して惜しいとは思いません。」(使徒言行録 20.21-24)

  今週もまた、個人的にだけではなく、共同体としても福音の種を、希望と勇気とをもって蒔き続けることができるように共に祈りたいと思います。