キリストの聖体・A年(2014.6.22)

「キリストのからだとの交わりなのではないか」


今日の祭日の歴史

 初めに、今日の祭日の由来について簡単に説明したいと思います。

 実は、ローマ帝国によって迫害されていた教会が、やっと公認され帝国教会になってからは、教会の典礼は、国家行事の形式を採用するようになったと言えましょう。その際、 まだ会衆は、その国家の礼拝には参加していました。

 ところが、中世になると、会衆の典礼への積極的参加は、大幅に後退してしまいました。その結果、典礼それ自体への参加から離れて、つまり典礼からキリストの聖体を切り離してしまい、もっぱら聖体そのものに関心を集中するようになったのであります。

 ですから、結果的には聖体拝領からも信者たちは遠ざかってしまったのです。ところが、一方で聖体自体を礼拝、賛美し、さらに盛大な聖体行列までも繰り広げるようなりました。

 さらに、初めてミサにおいて、聖変化の直前にも大きなホスチアを、司祭は、両手で高く掲げ、会衆にはっきりと見せるという習慣が生まれたのであります。

 そのような時代の1209年、ベルギーのリエージュのアウグスティヌス修道会のシスター・ユリアナの、聖体の祭日の必要性を暗示するような神秘体験がきっかけとなり、時の教皇ヨハネ二十二世は、この祭日を守るように決定したのであります。 特に、今日の祭日に行われた聖体行列は、14 世紀中にヨーロッパにおいて急速に広まり、さらに他の大陸にも普及し日本のような布教国においても、つい半世紀前までは、毎年の恒例の行事でありました。

 

 一致と交わりの秘跡

 ここで大切なのは、聖体の秘跡のミサにおける本来の位置づけの確認であります。ちなみに、秘跡としての「聖体」ですが、ラテン語では「エウカリスチア」と言い、「キリス トの御体」に限定されない、むしろ「感謝の祭儀」というほうが、よりふさわしいと思います。ですから、「エウカリスチア」を最初に「聖体」と訳したしまった、当時の日本の教会は、今日の祭日のようにキリストの御体に集中してしまった中世の影響を引きずっていたからではないでしょうか。

 とにかく、この秘跡をミサの典礼から切り離してしまうのではなく、あくまでも、ミサ全体の文脈での理解が必要であります。 そこで、今日の第二朗読においてパウロは、この秘跡のまさに核心に触れる説明をしているのではないでしょうか。 ちなみにギリシャ語の原文に忠実な『岩波聖書』の訳をここで引用します。

「わたしたちが祝福する祝福の杯、それはキリストの血との交わりなのではないのか。わたしたちが裂くパン、それはキリストのからだとの交わりなのではないか。パンが一つであるから、わたしたち多くの者は一つのからだなのである。」(一コリント 10.16- 17)

 ここで、ギリシャ語の原語の koinonia が二度にわたって使われていて、岩波訳では、 「交わり」となっています。 ですから、エウカリスチアは、なによりもキリストとの交わりによって皆と交わるという 秘跡なのであります。

 ところで『カトリック聖歌集』にある子ども向けの聖体拝領の歌 「わたしのむね」ですが、この「交わり」が一切入っておりません。参考のためその歌詞を、振り返って見たいと思います。

「一 しろいホスチア イエズスさま なつかしうれし いただきます わたしの胸に きて頂戴な いつもなつかし イエズスさま 三 わたしのこころ 折々に わるくなります 直して頂戴 わたしの胸に きて頂戴な いつもなつかし イエズスさま」

 ですから、日本の教会は、幼児洗礼の子どもたちが小学二年生になる頃に「初聖体」を 授けてきましたが、例えば英語では、First Communion と言います。つまり、文字通り訳 しますと、「初めての交わり」となり、まさに、この秘跡によって共同体の交わりの中に、子どもたちが、正式に迎えられるという本来の姿をいみじくも表しています。

 ところで、『カトリック教会のカテキズム』では、この秘跡について次のような適切な説明がなされています。

「エウカリスチアの秘跡で、キリスト教入信は完了します。洗礼によって王的祭司職にあげられ、堅信によってキリストにいっそう似た者とされた人々は、エウカリスチアによって、共同体と共にキリストの奉献にあずかります。」(1323)

 「エウカリスチアは、『キリスト教生活全体の泉であり頂点です。』・・・『実に、最もとおといエウカリスチアの中に教会の霊的富のすべて、すなわち、わたしたちの過越であり生けるパンであるキリストご自身が含まれています。』」(1324)

「神のいのちへの交わりと神の民の一致によって教会が存在するのであって、エウカリス チアはこの交わりと一致を適切に表現し、みごとに実現させます。」(1325)

 ですから、今年の夏にわたしたちの共同体の一致と交わりに始めて正式に、該当する10 名の子どもたちを迎える準備をしなければなりません。白いホスチアのイエスさまが、子ども一人ひとりのわたしのところだけではなく、皆のところにも来て下さるので、キリストによって皆が交わり一つになることができるのです。ですから、子どもたちも気に入っている「アーメン ハレルヤ」で、元気に次のように歌います。

  1. 世界のみんな兄弟さ 話すことばが違っても 主にむかう心は みんな同じ子どもだから
  2. 世界のみんな友達さ 働く場所が違うけれど 主に向かう心の 愛は一つ みんなのもの
  3. 世界のみんな隣人さ 倒れる者は助けながら 主に向かう心の 愛は一つ みんなのもの アーメン ハレルヤ アメーン ハレルヤ」