年間第14主日・A年(2014.7.6)

わたしに学びなさい、あなたがたは安らぎを得られる

 実は、今日の福音ですが、もともとは三つの別々の話だったのが、同じ文脈の中に纏めら れたのであります。

 ですから、一つ一つを切り離して少し説明したいと思います。

 幼子のような者に示された まず、最初のおことばですが、イエスは、はっきりと、神を具体的に表わしているイエスの実像は、幼子のような者にこそ知らされていることを強調なさいます。

「これらのことを知恵ある者や賢い者には隠して、幼子のような者にお示しになりまし た。」

 まず、ここで言われている「これらのこと」ですか、27 節の文脈つまり、「すべてのことは、父からわたしに任されています。父のほかに子を知る者はなく、子 と、子が示そうと思う者のほかには、父を知るものはいません。」につながる内容にほかなりません。

 実は、福音記者ヨハネも、同じようなことを次のように語っています。

「わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない。あなたがたはわたしを知っているなら、わたしの父をも知ることになる。今から、あなたがたは父を知る。いや、既に父を見ている。」(ヨハネ 14.6-7)

  旧約時代から、神の似姿である人間が、どれほど自分の元型である神を知るだけでなく、是非、一目(ひとめ) 見たいという強い願望をいだき続けてきました。ところが、たとえばモーセの時代には、神を見ると死んでしまうと思い込むほど、神を敬い畏れることが強調されていました。ですから、シナイ山で十戒を授かる場面でも、イスラエルの民は、まさに転変地異の只中で神を体験したのであります。その時の様子は、次のようにいとも荘厳に語られています。

「民全員は、雷鳴がとどろき、稲妻が光り、角笛の音が鳴り響いて、山が煙に包まれる有様を見た。民は見て恐れ、遠く離れて立ち、モーセに言った。

『あなたがわたしたちに語ってください。わたしたちは聞きます。神がわたしたちにお語りにならないようにしてください。そうでないと、わたしたちは死んでしまいます。』」(出エジプト 20.18-19)

 ですから、新約時代の特徴は、イエスによってわたしたちは父なる神を、まさにいつも共にいて下さる方であることを、知らされたことにほかなりません。

 けれども、すべての人々に全く同じように知らされたのではありません。なぜなら、御父の御心によって、「知恵ある者や賢いものには隠して、幼子のような者にお示しになった」からです。 実は、分裂騒ぎを起こしたしまったコリントの教会の信者宛てに、パウロは次のような書状をしたためております。

 「兄弟たち、あなたがたが召されたときのことを、思い起こしてみなさい。人間的に見て知恵ある者が多かったわけでもありません。ところが、神は知恵ある者に恥をかかせるために、世の無学な者を選び、力ある者に恥をかかせるため、世の無力な者を選ばれました。また、神は地位のある者を無力な者とするため、世の無に等しい者、身分の低い者や 見下げられている者を選ばれたのです。それは、だれ一人、神の前で誇ることのないようにするためです。」( 一コリント 26-29)

 ちなみに、イエスは、天の国で誰が一番偉いのかという質問に、次のようにお答になりました。

「一人の子どもを呼び寄せ、彼らの中に立たせて、言われた。『はっきり言っておく。心を入れ替えて子どものようにならならなければ、決して天の国に入ることはできない。この子どものようになる人が、天の国で一番偉いのだ。わたしの名のためにこのような一 人の子どもを受け入れる者は、わたしを受け入れるのである。』」(マタイ 18.2-5)

 

 疲れた者、重荷を負う者は、休ませてあげよう

 ところで、つい先日ですが、この度の大津波で、一家の主(あるじ)を一瞬にして失ってしまった遺族を、訪問し、今日のイエスの二番目のおことばで慰めて来たところです。

「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。」

  津波に流されて亡くなった方ですが、洗礼は受けなかったものの、ミサの説教のテープをよく聞いていたそうです。遺族の方々に話しました。人間にとって死とは、まさに神の御許 (みもと)で永遠の安らぎに入ることに他ならないと・・・。特に、晩年、例えば重い病気で苦しい闘病生活を余儀なくされた方々にとって、死こそが、あらゆる苦しみからの解放であり、完全な癒しなのであります。

 

わたしの軛を負い、わたしの学びなさい

 最後に、イエスは、「わたしは柔和で謙遜な者だから、わたしの軛を負い」と優しく呼びかけておられます。

 まず、くびきとは、農作業で家畜を使うとき、家畜の首にかけて結びつける道具です。

 ところが、聖書では、往々にして象徴的な意味で使われます。たとえば、人間が生きるように神が与える指示に、ひれ伏して謙虚に教えを乞う態度を意味します。ですから、イエスの時代には、ユダヤ教の指導者も、人々に軛として、まさに律法を忠実に守ることを求めていたようです。

 ところが、イエスは、まず、「わたしは柔和で謙遜な者だから、わたしの軛を負い、わたしに学びなさい、そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる。わたしの軛は負いやすく、わたしの荷は軽いからである。」と命じられるのです。

 実は、イエスは、弟子たちに向かって、次のような宣言をなさっておられます。

 「わたしについて来たい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。自分のいのちを救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのためにいのちを失う者は、それを得る。」(マタイ 16.24-25)

 確かに、わたしたちは自分の十字架は、自分で背負うしかないのですが、わたしたちが担う軛や重荷は、イエスご自身の軛であり重荷にほかなりません。しかも、それらをイエスと一緒に背負うので、軽くなるのではないでしょうか。

 今日のイエスの呼びかけに日々忠実に聞き従うことが出来るよう共に祈りたいと思いま す。