三位一体の主日・A年(2014.6.15)

「父と子と聖霊である唯一の神を賛美する」

三位一体の唯一の神を信じる

 教会は、初期の時代から、今日(こんにち)に至るまで一貫して、三位一体である唯一の神に対する揺るぎない信仰を、まさに土台として生きています。

 ですから、洗礼式においても「三位一体の神」に対する信仰告白を実践して来ました。

 そこで、洗礼志願者に対して、次のように司式者は確認します。

 「あなたは天地の創造主、全能の、神である父を信じますか。」

 まず、父なる神に対する信仰の表明です。続いて、子に対する信仰を確認します。

「父のひとり子 ご 、おとめマリアから生まれ、苦しみを受けて葬られ、死者のうちから復 活し、父の右におられる主イエス・キリストを信じますか。」

 最後に、聖霊に対する信仰を確認します。

「聖霊を信じ、・・・からだの復活、永遠のいのちを信じますか。」

 したがって、洗礼水を注ぐときには、三位一体の神の名をすべて唱えます。

 「父と(水を注ぐ) 子と(水を注ぐ) 聖霊(水を注ぐ)のみ名によって、あなたに洗礼を授けます。」(『カトリック儀式書 成人のキリスト教入信式』104-105 頁)

 また、初代教会の神学者(教父)も、三位一体の神について、極めて明確な神学を展開しましたが、その代表として西暦 400 年から 416年にかけて書かれた聖アウグスティヌスの教えのさわりの箇所を紹介したいと思います。

 「われわれは、父と子と聖霊は一 いつ なる神であり、被造物全体の創造者であり、かつ支配 者であること、父は子ではなく、聖霊は父でも子でもなく、父と子と聖霊は相互に関係する三位一体(さんみいったい) であり、等しい統一的存在であることを信じる。」

  ちなみに「三位一体」という言葉は、新約聖書やわたしたちがミサで唱える「使徒信条」でも使われておりませんが、まさに教会が造った神学的な用語にほかなりません。

 

 典礼は聖三位一体のみ業 ・典礼の源泉であり目的である御父

   次に、典礼において三位一体の神がどのように位置づけられ、働かれるのかを、簡単に振り返って見ましょう。

  まず御父ですが、明らかに典礼活動の源泉であり目的であることが確認できます。ですから、典礼の中心であるミサでは、開祭の儀で、早速、パウロの言葉に基づき次のように、司式者は会衆に向かって挨拶します。

 「主イエス・キリストの恵み、神の愛、聖霊の交わりが皆さんとともに。」(二コリン ト 13.13 参照)

  また、集会祈願の最後は、御父に向かって次のような文言(もんごん)で締めくくります。

「・・・聖霊の交わりの中で、あなたと共に世々に生き、支配しておられる御子、あた したちの主イエス・キリストによって。アーメン。」

 つまり、典礼における祈りの基本的な構造は、聖霊の交わりにおける御子によって、御父に向かって祈ることにほかなりません。なぜなら、御父こそが、典礼の「源泉」であり 「目的」だからです。

 ですから、パウロも、賛美の本来の基本的内容を次のように説明しています。

「わたしたちの主イエス・キリストの父である神は、ほめたたえられますように。神は、わたしたちをキリストにおいて、天のあらゆる霊的な祝福で満たしてくださいまし た。・・・神がその愛する御子によって与えてくださった輝かしい恵みを、わたしたちが たたえるためです。」(エフェソ 1.3-6)

 ちなみに、頻繁に使われる「祝福」とう言葉ですが、聖書で最初に登場するのは、『創世記』が語る天地創造の場面で、つまり天地創造の四日目に使われています。 「神は言われた。『生き物が水の中に群がれ。鳥は地の上、天の大空の面(おもて)を飛べ。』 神は群がるもの、すなわち大きな怪物、うごめく生き物をそれぞれに、また、翼のある鳥をそれぞれに創造された。神はこれを見て、良しとされた。神はそれらのものを祝福して言われた。 『産めよ、増えよ、海の水に満ちよ。鳥は地の上に増えよ。』」(創世記 1.20-22)

 ですから、「祝福」とは、まさに御父を源とする神の働きであり、生命力にほかなりません。

 したがって、人間が神を祝福するとき「賛美」となり、感謝を込めて創造主である御父を礼拝し、信じることになるのです。 とにかく、典礼において、神の「祝福」が、全面的に明らかにされ、伝えられるのです。

「すなわち、御父は、創造と救いのすべての祝福の泉であり目的として認められ、礼拝されます。わたしたちのために人となり、死んで復活されたみことばにおいて、御父はわたしたちを祝福で満たし、みことばによって、わたしたちの心にすべての賜物の最高のもの、聖霊を注がれます。」(『カトリック教会のカテキズム』1082 番)

 

典礼は大祭司キリストの業

 典礼は、キリストの「過越の神秘」をめぐって一年を通じて展開されます。しかも、典礼においてこそ、この「過越の神秘」が、祝う度ごとに実現、すなわち「現在化」するのであります。

 ですから、『典礼憲章』は、次のように説明しています。

「キリストはミサの<いけにえ>のうちに現存しておられる。『かつて十字架上でご自 身をおささげになった同じキリストが、今、司祭たちの奉仕職を通して、おささげるになる者として』奉仕者自身のうちに現存されるとともに、また何よりも聖体の両形態のもとに現存しておられる。キリストは諸秘跡のうちに、ご自分の力によって現存しておられ る。・・・聖書が読まれるとき、キリストご自身が語られるからである。

 

聖霊はキリストの神秘を現在化する

 典礼活動において、キリストの救いの出来事が祝われるたびごとに、聖霊が注がれ、実現するつまり現在化されるのです。しかも、聖霊が典礼において交わりと一致を実現する のです。

 ですから、ミサの奉献文で、次のよう祈ります。 「御子キリストの御からだと御血によってわたしたちが養われ、その聖霊に満たされ て、キリストのうちにあった一つのからだ、一つの心となりますように。」

 日々、父と子と聖霊の祝福に満たされるようともに祈りましょう。