聖霊降臨の主日・A年(2014.6.8)

「一同は聖霊に満たされ、“霊”が語らせるままに」


一同が一つになって集まっていると(約束の日が満ちて)

 今日の祭日の出来事は、福音記者ルカが書いたとされる第一朗読の『使徒言行録』(ミサでの朗読では、「使徒たちの宣教」)によって、いとも荘厳に描かれています。

 実は、今日の箇所の前の 1 章で、イエスが弟子たちに極めて大切な約束をなさったことが、次のように報告されています。

「エルサレムを離れず、前にわたしから聞いた、父の約束されたものを待ちなさい。ヨハネは水で洗礼を授けたが、あなたがたは間もなく聖霊による洗礼をさずけられるからである。」(1.4)

 ですから、ユダヤ人が毎年過越祭から 50 日目の「五旬祭」は、その年、まさにイエスの約束の日が満ちた日になったということです。したがって、「間もなく聖霊による洗礼をさずけられる」とは、他でもないその祭りの当日に弟子たちが体験した聖霊が教会にそして一人一人に降ったというまさに救いの歴史における極めて大切な出来事を暗示していたことになります。

  また、教会は、この聖霊降臨の出来事を、実に教会の誕生であったと教えています。

 第二バチカン公会議で決定された『教会憲章』において、次のような説明があります。

「五旬祭の日に聖霊が派遣された。それは、聖霊が教会をつねに聖化し、こうして信じる人々がキリストを通して、唯一の霊において父に近づけるようになるためであった。(エフェソ 2.18 参照)この霊はいのちの霊、すなわち永遠のいのちの水がわき出る泉であり(ヨハネ 4.14;7.38-39 参照)、この霊によって、父は罪のために死んでいる人々を生かし、ついには、彼らの死ぬべき肉体をキリストにおいて復活させる。(ローマ 8.10-11 参照)

 聖霊は教会の中に、また信者たちの心の中に、あたかも神殿の中にいるかのように住み(一コリント 3.16;6.19 参照)、彼らの中で祈り、彼らが神の子となったことを証明する(ガラテヤ 4.6;ローマ 8.15-16,26 参照)」(4項)

 とにかく、ルカは、「一同が一つになって集まっていると」と母マリアを含む使徒たちの共同体の交わりと一致を強調しています。一方、福音記者ヨハネは、今日の福音においてイエスが、復活させられた日の夕方、ユダヤ人を恐れ隠れていた使徒たちの真ん中に来られ、弟子たちに息を吹きかけ聖霊を注がれたと報告していますが(ヨハネ 20.22 参照)、同じように弟子たちの共同体において聖霊が降ったことを強調しています。

 

教会の交わりと一致の源泉である聖霊

 先週の3日水曜日に、ローマのオリンピック・スタヂアムで開催中の聖霊刷新大会で、教皇フランシスコは、5万人の参加者に向かって教会に豊かな実りをもたらすようにと励まされました。ですから、この聖霊刷新も、今日の教会における聖霊体験の大切な役割を担っていると言えましょう。

 とにかく、教会の誕生の日から、聖霊はいつの時代においても教会を力強く生かし続けておられます。特に初代教会においては、パウロが報告しているように、聖霊に賜物(カリスマ)が教会をまさに豊かにしていたのです。たとえば、分裂騒ぎを起こしてしまったコリントの教会においても確かに豊かな聖霊体験があったのです。

 パウロは、次のように詳しく説明しています。

「また、聖霊によらなければ、だれも、『イエスは主である』とは言えないのです。賜物はいろいろありますが、それをお与えになるのは同じ霊です。・・・一人ひとりに“霊”の働きが現れるのは、全体の益となるためです。ある人には同じ“霊”によって知恵の言葉、ある人には同じ“霊”によって知識の言葉が与えられ、ある人にはその同じ“霊”によって信仰、ある人にはこの唯一の“霊”によって病気をいやす力、ある人には奇跡を行う力、・・・が与えられています。これらすべてのことは、同じ唯一の“霊”の働きであって、“霊”は望むままに、それを一人一人に分け与えてくださるのです。」(一コリント 12.3-11)

 ここで強調されているように、まさに「一人ひとりに“霊”の働きが現れるのは、全体の益となるため」なのです。なぜなら、聖霊こそは、一致の霊であり、交わりの霊だからです。ですから、「第三の奉献文」で、次のように教会は祈ります。

「御子キリストの御からだと御血によってわたしたちが養われ、その聖霊に満たされて、キリストのうちにあって一つのからだ、一つの心となりますように。

 聖霊によって、わたしたちがあなたにささげられた永遠の供えものとなり、・・・すべての聖人とともに神の国を継ぎ、その取り次によって絶えず助けられますように。」

 最後に、教会の誕生から今日までの教会の歩みにおいて、わたしたちが常に聖霊の導きに忠実であったかを、簡単に総括してみたいと思います。

 まず、初代教会が体験して迫害の時代には、聖霊の力強い助けと支えがあったからこそ、その試練を乗り越えることができたのではないでしょうか。

 ところが、迫害が終わり、教会がローマ帝国によって公認され、事実上帝国の宗教となってからは、地上の権力に守られ、結びついてしまいました。特に教会が画一的に制度化されてからは、特のヨーロッパの封建制度の中に組み込まれてしまい、結果的に聖霊の働きにさからって分裂してしまったのです。これが 16 世紀の教会が体験した「宗教改革」と、それに対抗したトリエント公会議にほかなりません。そして、この分裂の後遺症を乗り越えるためにキリスト教会の一致に向けて方向転換が出来たのは、50 年前の第二バチカン公会議でした。

 先ほど、触れたカトリックの聖霊刷新は、そのルーツは、実は、米国のプロテスタント教会に由来します。なぜ、カトリック教会において、聖霊体験を強調する新たな動きが始まったのでしょうか。特に中世以来、教会は、制度と法的権威に重点を置きすぎた結果、聖霊の自由で豊かな働きを結果的に阻んで来たのではないでしょうか。だから、まさに遅ればせながら聖霊刷新として聖霊の再体験が起ったと言えましょう。

 幸い、半世紀前にさかのぼりますが、教皇聖ヨハネ二十三世は、まさに聖霊に突き動かされて、突然、公会議の開催を宣言しました。ですから、今日の教会にとって、第二バチカン公開議が「新な聖霊降臨」となり、まさに聖霊の最高の賜物であります。

 また、1980 年代には、教皇聖ヨハネ・パウロ二世は、「新たな福音化」を全世界に向けて呼びかけられました。そのアピールは、ベネディクト名誉教皇に引き継がれ、そして教皇フランシスにも託されました。

 教会にあらゆる活動が、いつも聖霊の力強い照らしと導きのもとに行われるよう共に祈りたいと思います。