復活節第4主日・A年(2014.5.11)

「わたしは門である。 わたしを通って入る者は救われる。」


羊はその声を知っているので、ついて行く

 イエスは、今日の福音の前半で、羊飼いと羊のイメージを使って、わたしたち一人ひとりが、また共同体ぐるみでイエスに忠実に聞き従うことの大切さを強調なさっておられます。

 「羊飼いは、自分の羊の名を呼んで連れ出す。・・・羊はその声を知っているので、ついて行く。しかし、ほかの者には決してついて行かず、逃げ去る。」

 イエスご自身、日々わたしたち一人ひとりに名指しで呼びかけてくださり、いのちのこ とばを聞かせてくださるのです。けれども、この素晴らし恵みを、 果してわたしたちは十分に自覚しているのでしょうか。

  実は、ペトロも、イエスがパンの奇跡を行われたとき、弟子たちを代表して、イエスに 対して、次のような信仰告白をしました。

「主よ、わたしたちは誰のもとに行きましょう。あなたは永遠のいのちのことばを持っ ておられます。」(ヨハネ 6.68)

 けれども、イエスの語り掛けを日々聞けるようになるために、まず、イエスのおことばを、特に子どもや若者たちに語り聞かせなければなりません。ですからこの大切な使命を、まず、親たちが果たす責任があります。なぜなら、パウロも、キリストのことばを聞くことこそが信仰の原点であると、次のように強調しているからにほかなりません。

 「聞いたことのない方を、どうして信じられよう。また、宣べ伝える人がなければ、どうして聞くことができよう。遣わされないで、どうして伝えることができよう。・・・実 に、信仰は、聞くことにより、しかも、キリストのことばを聞くことによって始まるので す。」(ロマ 10.14-17)

  つまり、子どもや若者たちが、イエスが名指して語り掛けるのを聞けるようになるために、まず、親たちが、福音を彼らに告げ知らせる責任があるのです。特に、日本のようにキリスト教の教育施設が少ない環境において、信仰教育は各家庭で始めなければなりません。

 ですから、すでにモーセの時代から、信仰の家庭における教育の大切さが強調されてい ます。モーセは、あたかも遺言のように、群衆に向かって語りかけました。

「今日、わたしがあなたに命じるこれらの言葉を心に留め、子どもたちにそれらを繰り返し教え、あなたが家に座っている時も道を歩いている時も、寝ているときも起きている時も、この言葉を語りきかせない。」(申命 6.6-7)

 同じくパウロも、福音宣教者である弟子のテモテを、次のように励ましています。

「みことばを宣べ伝えなさい。折が良くても悪くても励みなさい。・・・だれも健全な 教えを聞こうとしない時が来ます。・・・しかし、あなたがたは、どんな場合にも身を慎み、苦しみを耐え忍び、福音宣教者の仕事に励み、自分の務めを果しなさい。」(二テモ テ 4.2-5)

  今日(こんにち) の日本において子どもや若者たちは、スマートフォンやタブレットによってまさに 情報の波に飲み込まれています。何が正しいことなのが、何が間違っているのか、深刻な 混乱の内に翻弄されているのではないでしょうか。

 とにかく、イエスの声を知っているなら、決してほかの者にはついて行きません。

 

わたしは門である。わたしを通って入る者は救われる

 ですから、イエスは、今日の福音の後半で、きわめて大切な宣言をなさっています。

「わたしは門である。わたしを通って入る者は救われる。その人は、門を出入りして牧 草をみつける。・・・わたしが来たのは、羊が命を受けるため、しかも豊かに受けるため である。」

  永遠のいのちのことばを、イエスからいただくことが出来るのです。なぜなら、イエスこそ、救いに至る門だからです。そのことを、イエスは、最後の晩さんの席上で、次のように強調しておられます。

 「わたしは道であり、真理であり、命である。わたしをとおらなければ、だれも父のも とに行くことができない。」(ヨハネ 14.6)

 以前、宮城県の県北にある小さな小教区を担当していたときですが、そこの町ぐるみで、ボランティア活動に取り組むボラントピアとなるために、会合が開かれわたしも宗教界の代表として参加しました。その席上、主催者から次のような要望が出されました。

 「ひとり暮らしのお年寄りにお弁当を届け、また、体の不自由な方の入浴サービスなどの 奉仕をするボランティアは、確保できますが、家庭訪問によって話し相手になり、一人ひとりの相談に応じることができるようなボランティアが必要です。是非、教会の信者さんたちに、他の人たちが出来ないこのような活動を引き受けていただきたい。」

 ですからこのような家庭訪問で、まさに「道であり、真理であり、命であるキリスト」 について語るチャンスが与えられるかも知れません。勿論、いきなりイエスがだれであるかを、説明するのではなく、話し合いの中で、イエスに触れるきっかけが与えられるのではないでしょうか。

  とにかく、わたしたちは、様々の状況や場において、イエスを知らせる機会が与えられ るのです。なぜならば、イエスご自身がいつもわたしたちと共に聖霊をとおして働いてくださるからです。

 「一方、弟子たちは出かけて行って、至るところで宣教した。主は彼らと共に働き、彼 らの語ることばが真実であることを、それに伴うしるしによってはっきりとお示しになっ た。」(マルコ 165.20)

  今週もまた、この尊い福音宣教の使命を忠実に果たすことができるように共に祈りたい と思います。