復活節第3主日・A年(2014.5.4)

「わたしたちの心は燃えていた」

暗い顔をして立ち止まった

 今日の福音は、クレオパともう一人の弟子たちが、復活のイエスと一緒にエマオまで行くことができたという感動的な出来事を、伝えています。
 福音記者は、まず、この二人の弟子たちがたどり着いたエマオまでの距離もはっきりと60 スタディオンつまり 11 キロと正確に表示しながら、エピソードの真実性を脚色しています。
 とにかく、彼らは、エルサレムから逃げようとしていたのではないでしょうか。主イエスのいとも残酷な最期を見届け、その恐れと挫折感に打ちのめされ、一刻も早くその現場から遠ざかろうとしていたと思われます。そして、もっと安定した生活が出来る場所を求めたのではないでしょうか。
 いれずにしても、彼らは、歩きながらエルサレムでの重大な出来事のショックから立ち上がろうとして、激しく論じ合っていたというのです。
 ところが、なんと復活させられたイエスが、彼らに近づいて来られ、一緒に歩き始められたのです。まさに、わたしたちが遭遇する試練と苦しみの只中にイエスが、共にいて下さるのです。
 けれども信仰の目がさえぎられているならば、そばにおられるイエスに気づくことができないのです。

 ですからルカは端的に、「二人の目は遮られていて、イエスだとは分からなかった」と説明します。
そこで、イエスは、話題の核心に迫るために彼らに声を掛けられます。「歩きながら、やり取りしているその話は何のことですか。」
 そこで、彼らは、まさに「暗い顔をして立ち止まり」、事の真相を語り始めます。しかも、出来事の主人公を部外者と勘違いし、きわめて失礼なことを言ってしまいます。

「エルサレムに滞在しながら、この数日そこで起こったことを、あなただけはご存知ないのですか。」
ところが、イエスも、さりげなく「どんなことですか」と尋ねられたのです。
 そこで、二人そろってまさにその出来事をみごとに総括します。
「ナザレのイエスのことです。この方は、神と民全体の前で、行いにも言葉にも力ある預言者でした。それなのに、わたしたちの祭司長たちや議員たちは、死刑にするため引き渡して、十字架につけてしまったのです。」
 これこそ、神の救いのドラマのクライマックスにほかなりません。ですから、喜びの知らせなのです。ところが、この二人は、復活をまだ信じていなかったので、暗い顔で語る悲しい知らせになってしまったのです。
 しかも、彼らがそのとき心穏やかでなかったのは、墓に葬られたイエスのご遺体が見当たらないことに動転していたからです。


聖書全体にわたりご自分について説明された
 そこで、それまでのイエスとは違って、極めて厳しく二人を叱られました。
「ああ、物分かりが悪く、心が鈍く預言者たちの言ったことすべてを信じられない者たち、メシアはこういう苦しみを受けて、栄光に入るはずではなかったか。」
 実は、弟子たちの不信仰は、イエスが天にあげられるその時まで、残っていたのです。
 ですから、マルコは、次のように弟子たちについて説明しています。
「その後、十一人が食事をしているとき、イエスが現れ、その不信仰とかたくなな心をおとがめになった。復活されたイエスを見た人々の言うことを、信じなかってからである。」(マルコ 16.14)
 とにかく、弟子たちの不信仰の状態から抜け出て、信仰の次元に入るために、どうしても、神の救いの歴史全体を振り返る必要があったのです。

 ですから、そこでイエスは、「モーセとすべての預言者から始めて、聖書全体にわたり、ご自分について書かれていることを説明された」のです。
 まさに、聖書全体は神の救いの歴史の頂点にあるイエスに向けて、書かれているので、部分的にではなく、全体にわたって系統立てて読まなければならないのです。


二人の目が開け、イエスだと分かった

 聖書全体にわたってイエスがだれであるかを、総復習して二人の弟子は、まさに復活のイエスに会うための準備ができたことにほかなりません。ですから、まず、見知らぬ旅人にしか見えなかったイエスを、無理やり引き止め、一緒に夕食をすることができたのです。

 ところが、なんと食卓では、イエスが主人になり、早速、「パンを取り、賛美の祈りを唱え、パンを裂いてお渡しになった。」のです。
 とにかく、ルカは、最後の晩さんの時にイエスがなさったことを、繰り返しています。
 つまり、最後の晩さんでは、「イエスは、パンを取り、感謝の祈りを唱えて、それを裂き、使徒たちに与えて言われた。『これはあなたがたのために与えられるわたしの体である。わたしの記念としてこのように行いなさい。』」(22.19)と言ってミサを制定なさいました。
 ですから、わたしたちもこの二人の弟子のように、ミサの「ことばの典礼」において、聖書全体にわたりイエスについてみことばをいただき、後半で「感謝の典礼」においてまさに復活のイエスに一致できるのです。

時を移さず出発し

 とにかく、この二人は、エマオでの復活のイエスとの感動的な出会いを体験できたので、早速、他の弟子たちのいるエルサレムに引き返したのです。自分たちが逃げて来たところへ、戻ることができたのは、まさに、復活のイエスを体験できたからにほかなりません。
 しかも、自分たちの素晴らし体験をまず仲間に分かち合ったのです。
 ですから、ルカは、弟子たちの復活体験こそが、教会の宣教活動の原点になったことを、次のように確認しています。
「イエスは言われた。『わたしについてモーセの律法と預言者の諸と詩編に書いてあることがらは、必ずすべて実現する。これこそ、まだあなたがたと一緒にいたころ、言っておいたことである』
 そして、イエスは、聖書を悟らせるために彼らの心の目を開いて、言われた。『次のように書いてある。<メシアは苦しみを受けて、三日目に死者の中から復活する。また、罪の赦しを得させる悔い改めが、その名によってあらゆる国々の人々に宣(の)べ伝えられる>と。エルサレムから始めて、あなたがたはこれらのことに証人となる。』」(24.44-48)
 今日もまた、わたしたちは、一人ひとりが、さらに共同体ぐるみでこのミサによってイエスの死と復活の証人となるためにそれぞれの場に派遣されます。

 この使命を、今週もまた忠実に果たすことができるよう共に祈りたいと思います。