復活節 第2 主日(神のいつくしみの主日)・A年(2014.4.27)

「見ないのに信じる人は、幸いである」

恐れて閉じこもっていた弟子たち

 今日の福音は、復活させられたイエスが、その日の夕方、弟子たちに現れてくださったことを感動的に伝えています。

 それは、恐れと挫折感に閉じ込められまさに引きこもりの弟子たちが、罪が赦され解放されて復活のイエスから大きな喜びと勇気をいただくことができたとう救いの出来事にほかなりません。

 まず、ヨハネ福音記者は、復活のイエスが現れて下さる直前の弟子たちの心境を、極めて象徴的に次のように報告しています。

「弟子たちはユダヤ人を恐れて、自分たちのいる家の戸に鍵をかけていた。」

 自分たちもイエスと同じようにユダヤ教の当局によって捕えられ同じような迫害を受けるのではないかという恐れもさることながら、何よりも弟子でありながら、主イエスを、まさに見殺しにしてしまった自分たちそれぞれの後ろめたさと無力さに打ちひしがれていたのではないでしょうか。ですから、戸に鍵をかけるだけでなく、まさに自分の心にも鍵をかけ堅く閉じこもっていたと思われます。

 わたしたちも、もし、罪に閉じこもり、お互い同士に対しても心を開くことができない状態にいるのは、まだ、復活のイエスにお会いしていないからではないでしょうか。

 とにかく、ヨハネは、その時の様子を、次のように続けて報告します。

「そこへ、イエスが真ん中に立ち、『あなたがたに平和があるように』と言われた。そう言って、手と脇腹とをお見せになった。」

 おびえていた弟子たちには、心の平安は全くありませんでした。

 ところが、イエスが開口一番、おっしゃたのは、「あなたがたに平和があるように」でした。つまり、神は、わたしたちがどんな状態にあろうとも、いつもともにいて下さるという励ましのおことばにほかなりません。

 

派遣された弟子たち

 とにかく、突然のイエスのお姿に驚いた弟子たちに、イエスは、早速ご自分の脇腹の傷を見せてくださいました。つまり、十字架上で殺されたご自分であることの証拠を示されたのです。なぜなら、その時の弟子たちには、そのように自分の目で確かめることが出来る具体的なしるしが必要だったからです。続いて、イエスは、極めて重大な発言をなさいました。

「あなたがたに平和があるように。父がわたしをお遣わしになったように、わたしもあなたがたを遣わす。」

  まさに、派遣のおことばです。つまり、イエスが復活させられたのは、弟子たちをイエスの死と復活の証人として全世界に派遣するためだったのです。

 わたしたちも、ミサにおいて復活のイエスにお会いし、また、ミサによってそれぞれの場に派遣されるのです。つまり、ミサは、本来的にまさに派遣のミサにほかなりません。

 ですから、ミサによって派遣されるわたしたちは、一週間の生活の場、地域、職場などで復活のイエスを証しするのです。

 けれども、派遣されて復活のイエスの証人となるためには、聖霊の助けが必要です。ですから、イエスは、すぐに宣言なさいました。

 「そう言ってから、彼らに息をふきかけて言われた。『聖霊をうけなさい。だれの罪でも、あなたがたが赦せば、その罪は赦される。だれの罪でも、あなたがたが赦せば、赦されないまま残る。』」

  とにかく、聖霊をいただくことによって、まさに罪の赦しを体験できるようになるのです。つまり、神は復活のイエスによってわたしたちの罪を赦して下さるのです。しかも、この罪を赦す権能を、教会に与えてくださったのです。ですから、「赦しの秘跡」によって、教会は、罪の赦しという素晴らしい恵みを与えることができるのです。

 ところで、福音記者ルカも、イエスが天に昇られる前に、弟子たちに聖霊の注いて下さる約束をなさったと、次のように伝えています。

 「あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける。そして、エルサレムばかりでなく、ユダヤとサマリアの全土で、また、地の果てに至るまで、わたしの証人となる。」

  このように、罪と死に打ち勝ち復活させられた主は、日々、わたしたちに聖霊の息を吹きかけ、わたしたちを派遣なさるのです。

 復活のイエスこそ、わたしたちを罪の束縛から解放し、あらゆる恐れと不安を取り除き、新たな勇気と希望を与えてくださるのです。

 ですから、パウロは、自分を日々かりたてる力は、まさにイエスの復活の恵にあずかることによって与えられると強調しています。

「わたしは、キリストとその復活の力とを知り、その苦しみにもあずかって、その死の姿にあやかりながら、何とかして死者の中からの復活に達したいのです。

 わたしは、既にそれを得たというわけではなく、既に完全な者となっているわけでもありません。何とかして捕えようと努めているのです。自分がキリストに捕えられているからです。・・・なすべきことはただ一つ、後ろのものを忘れ、前のものに全身をむけつつ、神がキリスト・イエスによって上へ召して、お与えになった賞を得るために、目標を目指してひたすら走ることです。」(フィリピ 3.10-14)

 復活節にあたって一人ひとりがまた共同体ぐるみで、復活の恵みに満たされ、信仰の道を力強く歩み続けることが出来るよう共に祈りたいと思います。