四旬節第5主日・A年(2014.4.6)

「わたしは復活であり、いのちである」

 

旧約時代に示された神の救いの御業(みわざ)のクライマックス

 四旬節も第 5 週目に入り、典礼は「復活であり、いのち」であるイエスを、聖書が語る感動的な出来事によって示してくれます。
 実は、イエスが全人類に与えてくださる復活の恵みの前触れとして、すでに旧約聖書は、神の救いの特別な二つの出来事を伝えています。
 その一つ目は、イスラエルの民のエジプトの奴隷の家からの解放です。
 ちなみに、聖週間の典礼において「聖なる過越の三日間」として主の晩餐から復活の主日までを、まさに主の過越の神秘として祝います。この「過越」という言葉は、もともとは、エジプト脱出の際に使われた言葉であり、イエスが死からいのちへと過ぎ越された復活の神秘を表すようになったのです。
 次に、二つ目の救いの出来事は、今日の第一朗読の預言が語るバビロンの捕囚からの解放です。
捕囚民の只中で活躍した預言者エゼキエルは、首都バビロン近郊の運河の岸辺で、神の神秘的な出現を体験します。
 さらに、今日の箇所が語る枯れた骨の復活という壮大な幻を見せられるのです。その様子が、極めて幻想的に次のように描かれています。
「そこで、主はわたしに言われた。『これらの骨に向かって預言し、彼らに言いなさい。
枯れた骨よ、主のことばを聞け。・・・見よ、わたしはお前たちの中に霊を吹き込む。すると、お前たちは生き返る。わたしは、お前たちの上に筋をおき、肉を付け、皮膚を覆い、霊を吹き込む。すると、お前たちは生き返る。そして、お前たちはわたしが主であることを知るようになる。』わたしは命じられたように預言した。わたしが預言していると、音がした。見よ、カタカタと音を立てて、骨と骨とが近づいた。・・・・わたしは命じられたとおりに預言した。すると、霊が彼らの中に入り、彼らは生き返って自分の足で立った。彼らは非常に大きな集団となった。」(エゼキエル 37.4-10)
 これは、50 年以上にわたって先勝国に強制移住させられていたイスラエルの民が、解放されて故国に帰ることができるという希望に満ちた預言にほかなりません。


わたしはいのちであり、復活である

 次に今日の福音ですが、イエスが親しくしていたラザロを、すでに死後四日も経っていたにもかかわらず、見事に生き返らせたという感動的な出来事を伝えています。
 イエスが日頃から、親しくしていたマルタ、マリア、ラザロ兄弟は、ベタニアに住んでいたのです。ところが、この弟が、重い病気に罹ってしまいました。ですから、姉たちは、早速イエスの助けを求めたのです。

「主よ、あなたの愛しておられる者が病気なのです」と使いのものに伝言を託しました。ところが、何故か、イエスはすぐに行動に移りませんでした。そこで「この病気は死で終わるものではない。神の栄光のためである。神の子がそれによって栄光を受けるのである。」と断言なさったのです。このおことばを聞いた周りの者たちも、その意味を理解できなかったと思われます。とにかく、イエスご自身は、何をなさろうとしておられるのかを、確信していたのです。
 実は、その頃、イエスに対して神を冒涜する者として敵意を抱き、イエスを捕えようとするユダヤ人たちがいたのです。それにも拘わらず、ご自自分の身の危険を顧みず、ユダヤに行こうとなさり、同じ所に二日も留まっておられました。
 それから「わたしたちの友は眠っている。しかし、わたしは彼を起こしにいく」(11.11)と言われたので、弟子たちは答えました。「主よ、眠っているのであれば助かるでしょう。」(11.12)

   実は、そこで、イエスの話と弟子たちの理解とは、全く食い違っていたのです。つまり、イエスは、あくまでもラザロの死について語られ、弟子たちは、ただの眠りについて話されたと思ったのです。
 ですから、イエスは確認なさいます。

「ラザロは死んだのだ。わたしがその場に居合わせなかったのは、あなたがたにとってよかった。あなたがたが信じるようになるためである。」(14b-15a)
 とにかく、ようやくイエスがベタニアへ向ったのは、ラザロの死後なんと四日も経ってからのことです。そこで、イエスが来られたと知った姉のマルタは、イエスを出迎えます。ですから、彼女がイエスに会ったとたん、いきなり自分の正直な気持ちをさらけ出します。

「主よ、もしここにいてくだいましたら、わたしの兄弟は死ななかったでしょうに。しかし、あなたが神にお願いになることは何でも神はかなえてくださると、わたしは今でも承知しています。」
 とにかく、マリアのイエスに対する信頼感は、まったく揺らいでいません。
 そこで、イエスは宣言なさいます。「あなたの兄弟は、復活する。」
 その時、マルタは、まさに復活に対する見事な信仰告白をします。
「終わりの日の復活の時に復活することは存じております。」
 確かに、復活させられるのは、救いの完成の時、つまり終末においてだけです。ですから、イエスはまさに核心に触れる宣言を荘厳になさいました。
「わたしは復活であり、いのちである。わたしを信じる者は、死んでも生きる。生きていてわたしを信じる者はだれでも、決して死ぬことはない。このことを信じるか。」
 マリアは確信に満ちた信仰告白ができました。
「はい、主よ、あなたが世の来られるはずの神の子、メシアであるとわたしは信じております。」
 この復活こそは、イエスが死からいのちへと過ぎ越された、つまり「過越の神秘」にあずかることにほかなりません。それは、パウロが強調するように、洗礼を受けた時からいただくことのできる特別な恵みです。パウロは、次のように強調しています。
「わたしたちは、洗礼によってキリストと共に葬られ、その死にあずかる者となりました。それは、キリストが御父の栄光によって死者の中から復活させられたように、わたしたちも新しいいのちに生きるためなのです。」(ローマ 6.4)

 また、教会は死者ミサの叙唱で次のように祈ります。
「キリストのうちにわたしたちの復活の希望は輝き、死を悲しむ者も、とこしえのいのちの約束によって慰められます。
信じる者にとって、死は滅びではなく、新たないのちへの門であり、地上の生活を終わった後も、天に永遠のすみかが備えられています。」
 四旬節をしめくくるに当たって、罪から解放され、ますます主の過越の神秘により豊かにあずかることができるように、特に洗礼志願者と共に祈りたいと思います。