四旬節第4主日・A年(2014.3.30)

「光の子として歩みなさい」

眠りについている者、起きよ

 四旬節もいよいよ第 4 週目に入り、わたしたちの共同体は、洗礼志願者と共に、「清めと照らし」の典礼を実践しています。
 ですから、今日の聖書朗読のテーマは、「キリストの光に照らされて、光の子として歩む」ことに、総括できると思います。
 まず、第一朗読では、最後の士師サムエルが、二代目の王になる羊買いの青年ダビデに油を注いだことを伝えています。旧約時代から、王に即位するとき、または、預言者の召命を受けるとき、さらに祭司に任命されるときなどに、オリーブ油を頭に注ぐという儀式がありました。
 とにかく、サムエルは青年ダビデを選ぶに当たって、神が現実をどのようにご覧になられるのかを、端的に説明しています。

「人間が見るようには見ない。人は目に映ることを見るが、主は、心によって見る。」別な訳では、「人間が見るようには見ないのだ。人間は外観を見るが、主は心を見る。」となっています。

 とにかく、神は、真実を見抜かれるということではないでしょうか。
 したがって、わたしたちが罪を犯してしまうのは、真実を見極めることが出来ないので、まさに間違った判断をしてしまい暗闇に覆われてしまうのです。
 ですから、初代教会では、おそらく洗礼式に、今日の第二朗読が引用している賛歌を歌って洗礼志願者を励ましたと思われます。
「眠りについている者よ、起きよ。死者の中から立ち上がれ。そうすれば、キリストはあなたを照らされる」
 ちなみに、パウロは、今日の第2朗読の冒頭で「あなたがたは、以前には暗闇でしたが、今は主に結ばれて、光となっています。」と書いていますので、まさにそれまでの「暗闇」から解放されて、新たにキリストが照らしてくださる「光」のうちに歩もうとしている洗礼志願者を表しているのではないでしょうか。
 ここで言われている「暗闇」ですが、ぱうろは、同じ手紙の 2 章 11 節から 13 節で、次のようにしたためています。
「・・・あなた方は、以前には・・・この世の中で希望を持たず、神を知らずに生きていました。しかし、あなたがたは、以前は遠く離れていたが、今は、キリストにおいて、キリストの血によって近い者となったのです。」
 つまり、キリストから離れた「暗闇」の状態から、キリストの救にあずかることによってイエスに近づくことができるのです。
 次に、パウロは、「実を結ばない暗闇の業に加わらないで、むしろ、それを明るみに出しなさい。」と、勧めています。それは、自分の過ちを深く悟らせてもらい、一刻も早く光であるキリストのもとに立ち帰りなさいということではないでしょうか。
 とにかく、わたしたちはキリストの光に照らされなければ、キリスト者としての正しい道を歩むことはできません。ちなみに、詩編では、みことばこそが、わたしたちの歩みを照らす光であると詩われています。
「あなたのみことばは、わたしの道の光 わたしの歩みを照らす灯。」(詩編 119.108)
 また、福音記者ヨハネは、その福音の冒頭で、みことばでありキリストこそが、「すべての人を照らすまことの光」(ヨハネ 1.9)であることを、ほめたたえています。
「みことばの内にいのちがあった。このいのちは人間を照らす光であった。
光は闇の中で輝いている。闇は光に打ち勝てなかった。」(同上 1.4-5)
 世にいる間、世の光である暗闇の中をさまよう罪の状態から、キリストの光に照らされて救いの道に立ち帰る真の回心に道を歩むことこそが、まさに四旬節の第一の務めにほかなりません。
 ですから、今日の福音は、生まれながらの目の見えない人のいやしという感動的な出来事を通して、わたしたちも救い主イエスとの出会いを深めるよう呼びかけています。
 このエピソードも、ヨハネだけが伝えている奇跡ですが、生まれつき見えなかった人が、イエスがどなたであるのかを段階的に悟っていく姿が、生き生きと描かれております。
 まず、エピソードの冒頭で、極めて大切な問題が弟子たちから、イエスに提出されます。
「ラビ、この人が、生まれつき目が見えないには、だれが罪を犯したからですか。本人ですか。それとも両親ですか。」(同上 9.2)

 洋の東西を問わず、因果応報つまり、何か原因があるから、その結果があるという考え方です。ですから、病気とか障害も、罪という原因の結果にほかなりません。ところが、イエスは、この考え方を覆し全く新しい現実のとらえ方を、教えてくださいました。
「本人が罪を犯したからでも、両親が罪を犯したからでもない。神の業がこの人に現れるためである。わたしたちは、わたしをお遣わしになった方の業を、まだ日にあるうちに行わなければならない。・・・わたしは、世にいる間、世の光である。」(同上 9.3 b-5)
 神は、イエスによって、まさに人間にとって不幸と思われる現実の只中で、見事な救いのみ業を実現なさるのです。
 そこで、イエスは、早速、当人の目になんと唾でこねた土を塗り、命令なさいます。
「シロアムー『遣わされた者』という意味―の池に行って洗いなさい。」
 彼が、言われたとおりにすると、なんと、たちどころに目が見えるようになったのです。
 このいやされた当人は、次第にイエスがだれであるのかを深く悟っていきます。ですから、最初は、イエスのことを「知りません」と答えた彼ですが、周りの人々から問い詰められ、とうとう「あの方は預言者です」と言い切ったのです。
 そして、イエスに再会し、イエスから問い質されます。「あなたは人の子を信じるか。」と。そこで、彼はとっさに答えます。「主よ、その方はどんな人ですか。その人を信じたいのです。」イエスは、やさしくお答えになります。

「あなたは、もうその人を見ている。あなたと話しているのが、その人だ」
「主よ、信じます。」感動的な信仰告白です。
 特に、この四旬節に当たって、わたしたちも信仰の目を開いていただき、新たな信仰告白ができるように共に祈りたいと思います。