四旬節第2主日(2014.3.16)

「主の言葉によって旅だった」

 

キリスト者としての召命

 四旬節は、洗礼志願者と共に、キリスト者としての生き方を、再確認する恵みの時期にほかなりません。ですから、今日の聖書朗読箇所は、いずれもキリスト者としての召命について教えてくれるみことばが、選ばれております。
 では、早速、第一朗読を読み返して見ましょう。
言うまでもなく、聖書は、一貫して神の救いの歴史を語っていますが、最初に登場する歴史的人物が、神の民の先祖であるアブラハムです。今日の箇所は、彼の召命の出来事が、荘厳に語られている場面であります。まだ、神によって改名つまり名前が変えられる前ですから、「アブラム」として登場します。
「主はアブラムに言われた。
『あなたは、生まれ故郷父の家を離れて
わたしが示す地に行きなさい。』・・・」
アブラハムにとって、自分が慣れ親しんだ故郷を離れ、つまり、それらを捨てて、神が示す全く知らない新しい土地に向かっての旅立ちが、まさに彼の信仰の旅の始まりだったのです。それは、同時に彼の人生において神から召命をいただいた出来事でもありました。
『わたしは、あなたを大いなる国民にしあなたを祝福し、あなたの名を高める祝福の 源となるように』
しがない、遊牧民族の一族長である 75 歳のアブラハムは、まさに神の救いの歴史における全人類的スケールの大きい召命を受けたのです。
 ちなみに、パウロも、今日の第二朗読で、すべてのキリスト者も、アブラハムのように救いの歴史の一齣(ひとこま)に神によって呼び出されていると次のように断言しています。
「神がわたしたちを救い、聖なる招きによって呼び出してくださったのは、わたしたちの行いによるのではなく、御自身の計画と恵みによるのです。この恵みは、永遠の昔にキリスト・イエスにおいてわたしたちのために与えられ、今や、わたしたちの救い主キリスト・イエスの出現によって明らかにされたものです」
 つまり、わたしたちの一回限りの人生は、またに永遠の昔から与えられた召命を生きることにほかならないと言うのです。ですから、パウロは、『エフェソの教会への手紙』の中で、さらに詳しく、わたしたちのキリスト者としての召命について教えてくれます。
「天地創造の前に、神はわたしたちを愛して、ご自分の前で聖なる者、汚れのない者にしようと、キリストにおいてお選びになりました。イエス・キリストによって神の子にしようと、御心のままに前もってお定めになったのです。」(1.3b-5)
 わたしたちの人生こそが、キリスト者としての召命を生きることにほかなりません。そのため、日々、自分の思いや、計画ではなく、あくまでも神のみ旨と御心に従う生き方が肝心です。ですから、わたしたちは、毎日祈ります。

「みこころが天に行われるとおり、地にも行われますように」と。

 

わたしの心に適う者 これに聞け

 次に今日の福音ですが、イエスの御変容の出来事を描いています。
 特に、イエスの受難と死の予告を受け入れることができなかった弟子たちのために、まさに復活の栄光に輝くお姿を一目見せたかったのでしょうか。
 マタイはその場面を、まさに幻想的に描いております。
「イエスの姿が、彼らの目の前で変わり、顔は太陽のように輝き、服は光のように白くなった。」
 一方、ルカは、そこで栄光に輝くイエスと、モーセとエリアが何を語っていたのか、その内容を伝えています。ちなみに、この二人はいずれも、旧約聖書を代表する人物です。
 しかも、二人とも天に上げられたと語り伝えられている人物にほかなりません。ですから、弟子たちは、彼らを見たことによって、イエスが間違いなく天に属するお方であることを悟ったと思われます。
「二人は、栄光に包まれて現れ、イエスがエルサレムで遂げようとしておられる最期さいごについて話していた。」(ルカ 9.31)
 ですから、イエスが弟子たちに予告した「苦しみを受けて殺され、三日目に復活することになっている、」というおことばと見事につながります。
 次に、その場面で、ペトロがイエスの復活の栄光の輝きに圧倒され、思わず一つの提案を申し上げたのです。
「主よ、わたしたちがここにいるのは、素晴らしいことです。お望みでしたら、わたしがここに仮小屋を三つ建てましょう。一つはあなたのため、一つはモーセのため、もう一つは、エリアのためです。」
 ここで、ルカは、ペトロについて次のようにコメントしています。
「ペトロは、自分で何を言っているのか、分からなかったのである。」と(ルカ 9.33)
 とにかく、天からの最高の幸せに満たされたペトロは、この出来事を地上に留めて置きたくて、仮小屋を建てることを申し出たのでしょうか。
 けれども、このペトロの願いは、結局神は受け入れてくれませんでした。
 そこで、神自らが、光輝く雲の中からいとも荘厳に、弟子たちに語りかけました。
「これは、わたしの愛する子、わたしの心に適(かな)う者。これに聞け」と。
 つまり、イエスは、旧約時代を代表するこの二人とは異なり、むしろ旧約時代を完成させるお方であるとの認識が、ペトロには全く欠けていたのです。
キリスト者に求められていることは、ただ一つ、すべてを完成させるイエスに、日々、聞き、従うことが肝心なのです。
 それは、まさにキリスト者としての召命を全うする生き方の実践にほかなりません。
 イエスは、日々、わたしたち一人ひとりに、そして共同体に力強く語りかけてくださいます。
「わたしについて来たい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。」(マタイ 16.24)
 四旬節の豊かな祝福に、一人ひとりが、同時にまた共同体ぐるみで満たされるように共に祈りたいと思います。