受難の主日(枝の主日)・A年(2014.4.13)

「十字架の死に至るまで従順でした」

マタイが描く受難のイエス像

 典礼歴において今年は、A年に当たりますので、マタイによる受難のドラマを、朗読しました。ですから、マタイがイエスの受難を描く際に、何に焦点を当てているのかを探ってみなければなりません。

 それは、イエスが死に至るまで、御父のみ旨に従順であられたという生き方にほかなりません。ですから、すでに第一朗読で、イザヤが描く主の僕の歌によって、黙々と受難の道を歩むイエスのみ姿を彷彿とさせます。

「わたしは逆らわず、退かなった。

 打とうとする者には背中をまかせ

 ひげを抜こうとする者には頬をまかせた。

 顔を隠さず、嘲りと唾を受けた。」

  すでに、第二イザヤは、イエスが、徹底して御父のみ旨に従う生き方を貫かれるお姿を思い浮かべたのでしょうか。

 ですからマタイは、受難のイエスを次のように描いています。

「ピラトは言った。

 『あのようにお前に不利な証言をしているのに、聞こえないのか。』

 それでも、どんな訴えにもお答えにならなかったので、総督は非常に不思議に思った。・・・

そこで、ピラトはバラバを釈放し、イエスを鞭打ってから、十字架に付けるために引き渡した。・・・そして、イエスの着ている物を剥ぎ取り、赤い外套を着せ、茨で冠を編んで頭に載せ、また、右手に葦の棒を持たせ、その前にひざまずき、侮辱して言った。

 『ユダヤ人の王、万歳。』

 また、唾を吐きかけ、葦の棒を取り上げて頭をたたき続けた。」

 実は、マタイは、イエスが十字架上の受難を目前に控え、すでにゲッセマネでどれほど苦しまれたかを、詳しく描いています。

「ペトロおよびゼベダイの子二人を伴われたが、そのとき、悲しみもだえ始められた。そして、彼らに言われた。『わたしは死ぬばかりに悲しい。ここを離れず、わたしと共に目を覚ましていなさい。』少し進んで行って、うつ伏せになり、祈って言われた。『父よ、できることなら、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。しかし、わたしの願いどおりではなく、御心のままに。』

 ルカはこの同じ場面を、次のように強調しています。「イエスは苦しみもだえ、いよいよ切に祈られた。汗が血の滴るように地面に落ちた。」(ルカ 22.44)

 ですから、すでに体でも苦しみを感じられたので、思わず、「この杯をわたしから過ぎ去らせてください。」と必死に願ったのではないでしょうか。

 けれども、まさに精神力で気持ちを引き締め、「しかし、わたしの願いどおりではなく、御心のままに。」と祈ることができたのです。

 マタイは、キリスト者の生き方の基本は、天の御父の御心を忠実に生きることであることを、次のように強調しています。

 まず、日々の祈りにおいて、必ず「御心が行われますように、天におけるように地の上にも。」と願うのです。また、神の国に入る条件として、御心を行うことが大切であると、断言しています。

「わたしに向かって、『主よ、主よ』と言う者が皆、天の国に入るわけでなない。わたしの天の父の御心を行う者だけが入るのである。」(7.21)

 さらに、御心を実行してこそ、わたしたちはイエスの家族になることができるのです。

「だれでも、わたしの天の父の御心を行う人が、わたしの兄弟、姉妹、また母なのである。」(12.50)

ところで、ルカの並行箇所では、次のように言い換えています。

「わたしの母、わたしの兄弟とは、神のことばを聞いて行う人たちのことである。」(8.21)

  つまり、天の御父の御心は、すべて神のことばによって示されるのです。しかも、神のことばは、具体的にはイエスによって語られるのです。

 そのことを、イエスご自身が次のように強調なさいました。

「わたしが父の内におり、父がわたしの内におられることを、信じないのか。わたしがあなたがたに言うことばは、自分から話しているのではない。わたしの内にいる父がその業を行っているのである。」(ヨハネ 14.10)

  ですから、イエスによって語られる御父の御心を忠実に行うことが出来るのです。

 ところで、パウロもマタイに倣って、イエスの受難を御父に死に至るまで従順であったことを古い賛美歌を引用して感動的に描いています。つまり、死に至るまで、御父の御心を忠実に生きたイエスの従順こそが、イエスの救いの力の源であったと賛美しています。

 それが、今日の第二朗読です。

「イエス・キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、 僕の身分になり、人間と同じ者になられました。人間の姿で現れ、へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした。このため、神はキリストを高く上げ、あらゆる名にまさる名をお与えになりました。」

  イエスに倣って日々天の御父の御心を生きることができるのは、イエスのおことばの一つ一つに忠実に聞き従うことにほかなりません。

 特にこの聖週間に、イエスに徹底して聞き従うことが出来るように共に祈りたいと思います。