年間第 6 主日・A 年(2014.2.16)

「わたしが来たのは、完成するためである」

最も重要な掟とは

 今日の福音も、先週に引き続きイエスの山上の説教集が選ばれています。

 そこで、イエスは、極めて重大な宣言をなさいました。

「わたしが来たのは、律法や預言者を廃止するためだ、と思ってはならない。廃止するためではなく、完成するためである。」

 このように断言なさったのは、律法の掟を忠実に守っていた敬虔な人々の目には、イエスと弟子たちの言動があたかも律法を無視しているかのよう映っていたからではないでしょうか。特に律法の細かい掟に雁字搦(がんじがら)めになっていた律法学者やファリサイ派の人々からは、度々非難の的になっていました。

 たとえば、つぎのような出来事が報告されております。

「その頃、ある安息日にイエスは麦畑を通られた。弟子たちは、空腹になったので、麦の穂を摘んで食べ始めた。ファリサイ派の人々が、これを見て、イエスに、『ご覧なさい。あなたの弟子たちは、安息日にしてはならないことをしている』と言った」(マタイ12.1-2)

 とにかく、モーセの時代から、イスラエルの人々は、彼らの生き方を、すべて規定する神の掟を忠実に守って来たのです。その中心的な掟は、モーセがシナイ山で神から直接授かったとされる「十戒」であります(出エジプト 20.1-17 参照)

 ですから、大切なまさに伝統的な掟であることは確かです。けれども時代が移り変わる中で、イエスの時代には、特に安息日に関する掟が、細分化され、極めて窮屈な生活を強いられていたようです。ですから、特に安息日のまさに細かい規則が決められていました。労働が禁じられるだけでなく、煮たり焼いたり外出したりすることまでもが、禁じられるようになりました。また、薪を集めることや、畑を耕すこと、刈り入れることなども、すべて禁じられていました。

 ですから、イエスの「廃止するためではなく、完成するためである」という主張は、ユダヤ教が大切なモーセの律法を、ばらばらにしてしまったのを、神と隣人への愛の掟に再び統合すべきという意図が込められています。

 それは、つぎのような場面で確認されます。

「そのうちの一人、律法の専門家が、イエスを試そうとして尋ねた。『先生、律法の中で、どの掟が最も重要でしょうか。』イエスは言われた。『<心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。>これが最も重要な第一の掟である。第二も、これと同じように重要である。<隣人を自分のように愛しなさい。> 律法全体と預言者は、二つの掟に基づいている。』」(同上 22.35-40)

 

愛は律法を全うする

 実は、パウロも同じことを次のように強調しています。

 「互いに愛し合うことのほかは、だれに対しても借りがあってはなりません。人を愛する者は、律法を全うしているのです。『姦淫するな、殺すな。盗むな、むさぼるな』、そのほかどんな掟があっても、『隣人を自分のように愛しなさい』という言葉に要約されます。愛は、隣人に悪を行いません。だから、愛は律法を全うするものです。」(ローマ13.8-10)

 ちなみに、パウロは、冒頭で、「互いに愛し合うことのほかは、だれに対しても借りがあってはなりません。」と極めて意味深長な発言をしていますが、結局、わたしたちは、いくら真剣に互いに愛し合ったにしても、キリストを通してしめされた神の愛に比べるなら、いつも不足しているということではないでしょうか。

 つまり、わたしたちの愛は、いくら頑張っても愛し足りないという負い目が残るのであります。

 しかしながら、イエスは、愛が不足しているわたしたちを、いつも、力づよく励ましてくださいます。

 

新しい愛の掟

 「あなたがたに愛の掟を与える。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。互いに愛し合うならば、それによってあなたがたがわたしの弟子であることを、皆が知るようになる。・・・

友のために命を捨てること、これ以上の愛はない。わたしの命じることを行うならば、あなたがたはわたしの友である。もはや、わたしはあなたがたを 僕(しもべ)とは呼ばない。 僕は主人が何をしているか知らないからである。わたしはあなたがたを友と呼ぶ。父から聞いたことをすべてあなたがたに知らせたからである。あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだ。あなたがたが出かけて行って実を結び、その実が残るようにと、また、わたしの名によって父に願うものは何でも与えられるようにと、わたしがあなたがたを任命したのである。互いに愛し合いなさい。これがわたしの命令である。」(ヨハネ 13.34-35;15.13-17)

 また、今週、このイエスのご命令に忠実に従うことができるように、共に祈りたいと思います。