年間第5主日・A年(2014.2.9)

「地の塩・世の光」

君たちは地の塩だ

 今日の福音は、マタイ福音書にある山上の説教集の二番目に語られるテーマが選ばれています。マタイは、その場面を次のように書き始めています。

 「さて、イエスはこの人々の群れを見て、山にお登りになった。そして、腰をおろされると、弟子たちが近寄って来た。イエスは口を開き、彼らに教え始められた。」(5.1-2)

 ちなみに、ここで言われてる「山」ですが、現地で確かめた限り、むしろなだらかな丘といったほうかいいようです。とにかく、聖書において「山」は、神との出会いの場という象徴的な意味があります。

 そこに、腰を下ろされたイエスの近くに集まったのは、まず、弟子たちでした。そして、おそらく遠巻きに群衆も皆座って、イエスの話に聞き入っていたのではないでしょうか。

 そこで、イエスは、特に弟子たちに向かって熱弁を、次のように開始したのであります。(別な訳を引用します。)

「君たちは、世の塩である。しかし、塩が塩気を失うなら、それは何によって塩辛くされるべきなのか。それは、投げ捨てられ、人々によって踏みつけられる以外、もはや何の役にも立たない。」

 ここで、いみじくも「塩」というイメージが使われていますが、まさに、塩は、それ自体は小さく控え目ですが、なんと全体を味付けるためになくてはならない調味料です。また、塩漬けにすれば、その食品は長持ちします。

 実際にあった出来事を紹介して塩の役割を考えて見たいと思います。

 例えば、国全体が、間違った方向に突き進んでいる最中(さなか)、態度でそれに反対の意思表示をするのは、たしかに勇気が必要です。

 1932 年 5 月 5 日、配属将校北原大佐が、上智大学の学生を引率して靖国神社参拝と游就館(戦争・軍事分野の展示館)見学を実施した際、カトリック信者の学生二名は、神社参拝を拒否し、游就館だけを見学したという事件であります。

 五か月も後の、10 月1日付の『報知新聞』は、この上智大学の学生がとった行動を告発し、また 10 月 14 日付の『読売新聞』は、軍部が上智大学から配属将校を引き揚げさせる決定をしたと報じています。

 これらの報道が引き金となり、陸軍大臣が、キリスト教は日本の「国体」(国家の形態とその特質)と相容れない邪教であり、キリスト信者は、すべて売国奴やスパイであると言ったような発言が、大事件にしてしまったのです。

 けれども、その後、上智大学と東京大司教シャンポンが、靖国神社問題について、文部省に神社参拝における「敬礼」は、「愛国的意義を有するものにして豪も宗教的意義」のないことの確認を求めたというのです。

 これに対して、文部省は、神社参拝と「敬礼」について、その宗教性には一切触れずに、ただ「愛国心と忠誠とを現わすもの」とし、まさに愛国心教育の一環であるとの説明をしたとのことです。

「地の塩」としての「信教の自由」という歯止めを大きく後退させてしまった誠に残念な出来事になってしまいました。

 

君たちは、世の光だ

 次に、イエスは、傍に座っていた弟子たちにこれまた重大な宣言をなさいました。

 「あなたがたは世の光である。・・・また、ともし火をともして升の下に置くものではない。そのように、あなたがたの光を人々の前に輝かしなさい。」

  まず、イエスご自身が「光」であることを、福音記者ヨハネは、主張しています。

「みことばの内にいのちがあった。このいのちは、人間の光であった。光は、闇の中で輝いている。闇は光に打ち勝てなかった。」(ヨハネ 1.4-5)

 また、光であるイエスは、わたしたちにどのような影響を与えてくださるかを明言しておられます。

 「わたしは世の光である。

 わたしに従う者は、

 決して闇の中を歩くことなく、

 いのちの光を得るであろう。」(ヨハネ 8.12)

 わたしたちが、人々の前で光輝くことができるのは、すでにイエスご自身がわたしたちを照らしておられるからにほかなりません。ですから、あかしとは、このイエスの輝きをさえぎることなく、イエスご自身を指し示すことではないでしょうか。

 しかも、このイエスの光に照らされるなら、愛の実践に励むことができるのです。この体験を、今日の第一朗読は、見事に語っています。

 「飢えている人に心を配り

 苦しめられている人の願いを満たすなら

 あなたの光は、闇の中に輝き出で

 あなたを包む闇は、真昼のようになる。」

 また、この一週間、日々、輝き続けることができるよう共に祈りたいと思います。