「主の奉献にあずかる」
今日の祝日の由来
今日の祝日の由来について簡単に説明したいと思います。
まず、今日の福音に基づいて、イエスが、生まれて 40 日後に、モーセの律法に従ってヨセフとマリアによってエルサレムの神殿で、神にささげられたことを記念し、祝います。
典礼の歴史を振り返りますと、エルサレムでは、すでに五世紀に、またローマでも七世紀には、この祝日が祝われるようになりました。
そして、十世紀からは西方典礼では、「マリアの清めの祝日」と呼ばれるようになりましたが、1960 年の典礼改革で、東方教会の伝統に合わせて再び「主の奉献の祝日」と名付けられました。とにかく聖書的根拠からしても、母親マリアの清めとイエスの奉献との両方に基づく祝日であることは、確かであります。
また、今日の祝日には、「異邦人の光キリスト」にちなんで、ローソク行列を行っていたので、今日のミサは、ドイツ語では「光のミサ」英語では「蠟燭ろうそくミサ:Candle-mass」と呼ばれていました。
さらに、今日の日を「出会いの日」とも呼んでいました。つまり、清めも奉献も神殿でおこなわれたことに由来します。なぜなら、パレスチナの神殿は本来的に神と人との出会いの場としての聖所だからです。
主は突如、聖所に来られる
では早速、今日の第一朗読ですが、マラキ預言が選ばれています。
ちなみに、この箇所を、フランシスコ会訳にしますと、次のようになります。
1節は、まず a.「見よ、わたしは道を整えるわたしの使いを、わたしの前に遣わす。」
先駆者の役目を思い起こさせる箇所です。おそらく預言者が奉仕として神の到来を準備することを示しています。
次に、b.「お前たちの求める主が、その神殿に突然やって来る。」
期待されるメシアが、意外なとき、予期しないときに突然やってくるというのです。
最後はc.「そして、お前たちが望んでいる契約の使者がもう来ている。」
明らかに、メシア的な人物を想定しています。
次に4節が、「そして、ユダとエルサレムの捧げ物は、主を喜ばせるだろう。
昔の日々のように、過ぎ去った年月のように。」となります。
主なる神と、イスラエルとの間にまさに理想的な親しい関係があったことを暗示しているようです。また、荒れ野での<いけにえ>をささげることに、祭司を戻すことを主張していると思われます。
とにかく、このマラキ預言が、イエスによって見事に成就したことを、教会は典礼の中で祝い続けて来たのです。ですから、今日の福音は、マリアの清めと、幼子イエスの神殿における奉献を伝えています。
エルサレムの神殿で
22 節は、「モーセの律法に定められた彼の清めの期間が過ぎたとき、」とありますが、まず、考えられるのは、『レビ記』(12.2-8 参照)に従って、産後の母親の清めの規定です。
さらに、「初めて生まれる男子は皆、主のために聖別される」という、『出エジプト記』13 章 2 節に基づいて、生後 40 日目の幼子イエスが、奉献されたのです。実は、乙女マリアが、天使ガブリエルからお告げを受けたとき、すでに次のように告げられました。
「聖霊があなたに降り、いと高かき方の力があなたを包む。だから、生まれる子は聖なる者、神の子と呼ばれる。」(ルカ 1.35)と。
ちなみに、第二バチカン公会議が生み出した『教会憲章』には、すべてのキリスト者が聖性への普編的召命を受けていることを、次のように強調しています。
「実際、主はすべての人に聖霊を派遣し、聖霊は、人々が心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして神を愛するように(マルコ 12.30 参照)、またキリストが彼らを愛したように、彼らも互いに愛し合うように(ヨハネ 13.34;15.12 参照)、彼らを内側から動かす。キリストに従う者は、自分のわざによってではなく、神の計画と恵によって神から召され、主イエスにおいて義とされ、洗礼によって 真に神の子、神の本性にあずかる者、したがって実際に聖なる者とされたのである。」(40 項)
聖霊によって永遠の供え物となる
ですから、わたしたちも、ミサの第三奉献文で次のように祈ります。
「聖霊によってわたしたちがあなたにささげられた永遠の供えものとなり、選ばれた人々、神の母おとめマリアをはじめ、使徒と殉教者、すべての聖人とともに神の国を継ぎ、その取り次ぎによって絶えず助けられますように。」
また、パウロは、極めて明解にキリスト者の日々の生き方の基本を次のように勧めてくれます。
「自分の体を神に喜ばれる聖なる、生ける<いけにえ>として献げなさい。
これこそ、あなたがたのなすべき礼拝です。あなたがたは世に倣ってはなりません。むしろ、心を新にして自分自身を変えていただき、何が神の御心であるか、何が善いことで、神に喜ばれ、また完全であるかをわきまえるようになりなさい。」(ローマ 12.1-2)
日々、イエスにならってわたしたちも自分自身のすべてを、天の御父にささげることができるように、共に祈りたいと思います。