年間第3主日・A年(2014.1.26)

「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしよう。」

コリントの教会がなぜ分裂したのか

 異邦人の世界に最初に福音の宣べ伝え、信仰共同体を次々と育てて行った初代教会のまさに代表的使徒パウロは、早くも深刻な問題に突き当たりました。

 彼の第二福音宣教旅行の際に自らが創立したコリントの教会が、なんと分裂騒を起こしたというのです。そのため、どうしてもこの教会の信者宛てに手紙を書く必要にせまられました。

 現在、新約聖書に収められているのは、第一と第二の二通だけですが、おそらくはもっと書いたのではないでしょうか。

 今日の第二朗読がとられている第一手紙は、パウロがエフェソから早くて西暦 54 年、遅くとも 57 年のころに書いたと思われます。

 とにかく、この手紙の出だしは、まず感謝の言葉がつづられております。

「わたしはあなたがたのことで、いつもわたしの神に感謝しています。キリスト・イエスのお陰で、神の恵みがあなた方に与えられたからです。実に、あなた方は、すべての点で、特にあらゆる言葉とあらゆる知識において、キリスト・イエスのお陰で豊かにされているのです。キリストについての証しが、あなた方のうちにしっかりと根を下ろしたので、その結果、あなた方は、神のどのような賜物にも欠けるところがなく、わたしたちの主イエス・キリストの出現を待ち望むようになっています。」(1.4-7)

  全く、模範的な教会の姿です。けれども、パウロの筆先は、単刀直入に問題点に触れていきます。それが、今日の朗読箇所に続きます。

  ちなみに、冒頭の 10 節の言葉すなわち「あなたがたに勧告します。」を「あなたがたにお願いします。」という訳もあります。

「兄弟たち、わたしの主イエス・キリストの名によってあなたがたに勧告します。皆、勝手なことを言わず、仲たがいせず、心を一つにし、思いを一つにして、固く結び合いなさい。わたしの兄弟たち、実はあなたがたの間に争いがあると、クロエの家の人たちから知らされました。」

 そして、派閥争いの実態を暴きます。

「あなた方はめいめい、『わたしはパウロにつく』『わたしはアポロに』『わたしはケファに』『わたしはキリストに』などと言い合っているとのことです。キリストは幾つにも分けられてしまったのですか。パウロが、あなた方のために十字架につけられたのですか。あなたがたはパウロの名によって洗礼を受けたのですか。」

 ここまで言われてしまったら、全く弁解の余地はないですね。

 確かに、パウロが最初の挨拶で、コリントの信者たちは、「キリスト・イエスのお陰で、神の恵みが与えられた」はずですが、いつの間にかその恵がしぼんでしまったのでしょうか。つまり、洗礼を受けてから継続して信仰教育を実践していなかったため、信仰がマンネリ化し、結局、派閥に分かれてしまったのでしょうか。つまり、先週すでに強調したように、洗礼の恵みは、日々新たにされなければ、まさに遅かれ早かれやせ細ってしまう危険があるということではないでしょうか。

 ですから、同じ第二手紙で、パウロはコリントの教会の信者たちを、試練の只中から力強く励ましています。

 「だから、わたしは落胆しません。たとえわたしたちの『外なる人』は衰えていくとしても、わたしたちの『内なる人』は、日々新たにされていきます。わたしたちの一時の軽い艱難は、比べものにならないほど重みのある永遠の栄光をもたらしてくれます。わたしたちは、見えるものではなく、見えないものに目を注ぎます。見えるものは過ぎ去りますが、見えないものは永遠に存続するからです。」(コリント二、4.16-18)

 

人間をとる漁師にしよう

 次に、今日の福音ですが、最初の弟子たちの召命の場面であります。

「ペトロと呼ばれるシモンとその兄弟アンデレが、湖で網を打っているのをご覧になった。」

 召命とは、イエスのおめがねに適うことにほかなりません。わたしたちのほうから名乗り出るのではありません。イエスの方から、早速お声がかかります。

「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしよう。」

 イエスの一方的なご計画です。ですから、わたしたちの即座の決断が肝心です。

「二人はすぐに網を捨てて従った。」

 ちなみに、福音記者ヨハネは、この弟子たちの召命の場面を全く別な描き方をしています。

「その翌日、ヨハネは、また、二人の弟子とともに立っていた。そして、イエスが歩いておられるのを見つめて言った、『見るがよい。神の小羊だ』

 二人の弟子は、ヨハネがそう言うのを聞いて、イエスについて行った。イエスは振り返り、二人がついてくるのを見て、『何を求めているのか』と仰せになった。彼らは、『ラビー訳すと<先生>−、どこにお泊りですか』と尋ねた。

イエスはお答えになった、『来なさい。そうすれば分かる』。そこで二人はついて行き、イエスが泊まっておれる所を見た。そして、その日はイエスの所に留まった。時は午後四時ごろであった。」(ヨハネ1.35-39)

 わたしたたも、日々キリスト者としての召命に忠実に応えることができるように共に祈りたいとおもいます。