主の公現(2014.1.5)

「御ひとり子を諸国の民に示された」

主の公現の祭日の由来

 典礼の暦では、まだ降誕節が続いています。ですから、今日の主の公現の祭日は、降誕祭の中で祝わうのであります。実は、主の公現の典礼の由来を少し歴史的にふりかえってみますと、すでに三世紀頃にキリスト教の一派バシレイデスが、異教宗教の影響を受け、1月 6 日あるいは 10 日に、なんと真夜中の礼拝で、ヨルダン川におけるイエスの洗礼を祝ったのが、始まりだったようです。つまり、彼らは、イエスの洗礼こそが、マリアへの御やどりと誕生であると理解していたのであります。

 その後、エジプトのアレキサンドリアでこの祭日が始まりました。ですから、イエスの洗礼と同時に誕生をも祝っていたのであります。

 そして、四世紀後半になりますと、この祭日は東方教会だけでなく、西方教会にも普及し、エルサレムでは、本来、ベツレヘムの真夜中の礼拝でイエスの誕生を祝い、続いてエルサレムまで長い行進行例を行いそこで公現を平行して祝うようなりました。

祭日のテーマ:王である御ひとり子を諸国民に示された。

 では、今日の祭日のテーマを、いつものように聖書朗読箇所を手がかりに少し掘り下げ

てみましょう。

まず、第一朗読ですが、主の栄光の光が主題となっています。

 「エルサレムよ、起きよ、光を放て。

 あなたを照らす光りは昇り、主の栄光はあなたの上に輝く。

 ・・・

 しかし、あなたの上には主が輝き出いで

 主の栄光があなたの上に現れる。

 国々はあなたを照らす光に向かい

 王たちは射し出でる

その輝きに向かって歩む。」

 ですから、すでに今日の集会祈願で、次のように祈りました。

「すべての民の光である父よ、あなたはこの日、星の導きによって御ひとり子を諸国の民に示されました。信仰の光によって歩むわたしたちを、あなたの顔を仰ぎ見る日まで導いてください。」

  確かに、飼葉桶に寝かされている幼子イエスを最初の拝みに来たのは、ベツレヘムの貧しい羊飼いたちでした。ところが、今度は東方から占星術の学者たちが、なんと星に導かれてはるばるやって来たというのであります。この学者たちの名前は、ヨーロッパ教会に伝わる伝説によれば、バルタザール、メルキオール、カスパールであり、しかも聖人とて崇められています。実は、彼らの物とされる聖遺物が、1164 年 7 月 23 日に、イタリアのミラノからドイツのケルンに移されました。その結果、この三人の学者たちへの崇敬がヨーロッパで非常に盛んになり、今日の祭日は、本来のテーマから離れむしろこの三人の聖人の祭日という色彩が定着してしまったようです。

 ですから、今日の祭日の本来の意義を、あらためて確認する必要があります。

 主題は、二つあると言えましょう。

 第一は、幼きイエスの王としての権能であります。確かに、きわめて貧しい環境の中に生み落とされたイエスは、すでにメシア預言によってしばしば示されたようにダビデ王朝の末裔でなければなりません。たとえば、預言者ナタンは、紀元前 8 世紀頃、ダビデ王に向かって力強く、次のように預言しております。

「主はあなたに告げる。主があなたのために家を興す。あなたが生涯を終え、先祖と共に眠るとき、あなた自身から出る子孫に跡を継がせ、その王国を揺るぎないものとする。

 この者がわたしの名のために家を建て、わたしは彼の王国の王座をとこしえに堅く据える。わたしは彼の父となり、彼はわたしの子となる。」(サムエル記下 7.11-13)

  ですから、天使ガブリエルも、乙女マリアに向かって次のように告げております。

 「あなたは身ごもって男の子を産むが、その子をイエスと名づけなさい。その子は偉大な人となり、いと高き方の子と言われる。神である主は、彼に父ダビデの王座をくださる。彼は永遠にヤコブの家を治め、その支配は終わることがない。」(ルカ 1.31-33)

 

ユダヤ人の王としてお生まれになった方は、どこに

  今日の福音で、福音記者マタイは、東方の学者たちは、まずヘロデ王に次のように尋ねたと念を押しています。

「ユダヤ人の王としてお生まれになった方は、どこにおられますか。わたしたちは東方でその方の星を見たので、拝みに来たのです。」

  実は、当時のオリエント世界においては、ある特殊な「星座」の解釈として、世界の王の誕生と結びつけていたことは、確かであります。実は、古いユダヤの文書には、土星はユダヤ人にとっての「特別の」星と呼ばれいたそうで、確かにこの木星と土星を合わせてメシアの到来のしるしとして待望されていたようであります。

 次に、今日の祭日の二つ目の主題ですが、この幼子イエスこそ、諸国の民を照らす光にほかならないと言うことです。ですから、すでに今日の第一朗読で、神の栄光の光がテーマになっております。したがって、プロテスタント教会では、次のような祈りを捧げます。

「イエス・キリストよ、まことの光よ、あなたを知らない人々を照らし、彼らをあなたの許に導いて、魂を祝福してください。」と、まさに教会の本来の使命である福音宣教に結びつけています。

 わたしたちは、昨年、特に待降節には、地域の人々にイエス・キリストを知らせるように努めました。

 ところで、パウロは、晩年、弟子のテモテに宛てて次のような切なる思いを書き送っています。

「みことばを宣べ伝えなさい。折が良くても悪くても励みなさい。とがめ、戒め、励ましなさい。忍耐強く、十分に教えるのです。だれも健全な教えを聞こうとしない時が来ます。そのとき、人々は自分に都合の良いことを聞こうと、好き勝手な教師たちを寄せ集め、真理から耳を背け、作り話のほうにそれて行くようになります。

 しかし、あなたは、どんな場合にも身を慎み、苦しみを耐え忍び、福音宣教者の仕事に励み、自分の務めを果たしなさい。」(テモテ二、4.2-5)

 わたしたちも、年の初めにあたって、今年こそ年間通して福音宣教に励むことができるように共に祈りたいと思います。