年間第 25 主日・C 年(2013.9.22)

「わたしは、祈ることしかできなかった」

患者のために命をささげた看護師

 今年の初めに出版された『看取り先生の遺言―がんで安らかな最期を迎えるために―』という単行本ですが、2000 人以上の患者さんを看取ったがん専門医の岡部健先生の遺言としてジャーナリストの奥野修司さんが書き下ろしたものです。その中で、岡部先生の祈りの体験に触れる箇所がありますが、文脈上少し前の部分から引用したいと思います。

「激しい余震の中で、遊佐看護師は、患者宅に辿りついたが、そのまま現場に踏みとどまって患者の世話を続けた。そこへ老婦人の夫が戻ってきた。しばらくすると異様な水音に気づき、遊佐さんはあわてて患者を背負って二階にあげた。このとき一階に残した患者の薬をとりに戻ったのだろうか。そこへ津波が襲いかかってきたのである。老夫婦は助かったが、遊佐さんは行方不明になった。・・・遊佐さんの遺体が見つかったのは 3 月 17 日だった。岡部医師は、遊佐さんが亡くなったその現場に立ったとき、稲妻が体を通り抜ける感覚を覚えたという。・・・あれは、遊佐看護師が亡くなったときだった。あたり一面、まるで爆撃を受けたような廃墟が連なり、私は茫然と立ちすくんでいた。人間の存在をはるかにこえた力を前にしたとき、私は祈ることしかできなかった。

・・・所詮、人間は大きな自然の命の下につながっていきている存在なのだ。私も大きな命の下にぶらさがっている生命体なのだ、そんな感覚が、まるで天の声が聞こえるように舞い降りたのである。」

 ここで、岡部先生は、「大きな命の下にぶらさがっている生命体なのだ」とつぶやいておられますが、まさに神の命と言い換えることができるのではないでしょうか。

 つまり、わたしたちが、祈ることができるには、すでに神の命につながっているからにほかなりません。

『創世記』では、「神はご自分にかたどって人を創造された。神にかたどって創造された」(1.27)と繰り返し強調しています。それは、人間こそ直接に神につながっている存在であると言う意味ではないでしょうか。だから、神に祈ることが出来るのです。

 また、先生は、「人間の存在をはるかに超えた力を、前にしたとき、私は祈ることしかできなかった」と告白なさっておられますが、まさに自分が、全能の神の前に立たされているという信仰の原点においてこそ、本物の祈りができるという信仰告白ではないでしょうか。

 ですから、今日の第二朗読で、パウロも祈りこそ信仰者の根本的な務めであることを、次のように勧めています。

「まず、第一に勧めます。願いと祈りと執り成しと感謝とをすべての人々のためにささげなさい。」

 パウロは、『テサロニケの信徒への手紙』の中で、キリスト者の生き方を、次のように強調しています。

「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。どんなことにも感謝しなさい。これこそ、キリスト・イエスにおいて、神があなたがたに望んでおられることです。」(5.16-18)

 

とりなしの祈りでつながる

 今日のパウロの祈りの勧めに、「執り成し」という祈りが含まれています。この執り成しの祈りは、わたしたちは、ミサの共同祈願において毎週ささげていますが、この執り成しの祈りこそ祈る者と祈ってもらう者とを結びつけることに他ならないことを、また、大震災の大津波での体験が教えているのではないでしょうか。その一部をここで紹介したいと思います。

「その時である。一人の生徒が教室の窓を指して、『先生、津波だ!』と叫んだ。目をやると、普段は見えるはずがない巨大な水の壁が海岸線の向こうに立ち上がるのが見えた。

 それがみるみる濁流となり、集落をひとのみして押し寄せてくる。・・・一人の生徒が屋上の屋根のフェンスにしがみつき、涙で顔をぐちゃぐちゃにしながら、「じいちゃーん」と叫んだ。・・・立ちすくむ子、しゃがみこむ子、祈りの届く余地はなく、黒い海は一人ひとりの未来を確かめることもせずのみこんでいった。この生と死を切り裂く一瞬の光景を、多田先生も子どもたちも茫然と眺めていた。

 多田先生は、今でも週に一度、瓦礫の中に取り残された無人の荒浜小学校を訪ねる。四階の教室の黒板に、これまで撮りためていた子どもたちの思い出の写真をはりつけてくる。・・・翌週、教室を訪ねると、写真は消え、かわりに子どもたちの名前とともにメッセージが黒板に残されている。・・・

 あの黒い海の記憶を共有する子どもたちと、どこかでしっかりとつながっていることが、今の多田先生には生きるために必要なすべてなのだ。」(山形孝夫『黒い海の記憶、いま、死者の語りを聞くこと』64-66 頁)

 この多田先生が、生徒たちのために毎週、廃墟と化した無人の学校を訪ね、子とも達一人ひとりとしっかりつながっていることを確認していることが、まさに先生の子どもたちのための執り成しの祈りではないでしょうか。そして、この祈りこそが多田先生に生きる力を与え続けているのです。

 執り成しの祈りこそ、祈る者と祈ってももらう者とが、しっかりと神によって結ばれるという体験にほかなりません。

 最後に、旧約聖書で語られているアブラハムの感動的な執り成しの祈りを、ここで引用したいと思います。

「主は言われた。『もしソドムの町に正しい者が五十人いるならば、その者たちのために、町全部を赦そう』

 アブラハムは答えた。『塵芥にすぎないわたしですが、あえて、わが主に申し上げます。もしかすると、五十人の正しい者に五人足りないかもしれません。それでもあなたは、五人足りないために、町のすべてを滅ぼされますか。』主は言われた。

『もし、四十五人いれば滅ぼさない。』・・・アブラハムは言った。『あえて、わが主に申し上げます。もしかすると、二十人しかいないかもしれません。』主は言われた。『その二十人のためにわたしは滅ぼさない。』アブラハムは言った。『主よ、どうかお怒りにならずに、もう一度だけ言わせてください。もしかすると、十人しかいないかもしれません。』主は言われた。『その十人のためにわたしは滅ぼさない。』」(創世記 18.26-32)

 わたしたちも、日々の祈りの中で、必ず、とりなしの祈りをささげるが出来るよう、共に祈りたいと思います。