年間第 26 主日・C 年(2013.9.29)

「無関心から連帯へ回心する」

 先月の九月一日に、教皇フランシスコは、バチカンのサン・ピエトロ広場に集まった群衆を前にして平和を力強く訴えられました。

 教皇は、世界中で起きている武力による紛争に心を大変痛め、「この数日間、私の心は、特にシリアで起っていることによって深く傷つき、悲劇的な展開が迫っていることに苦痛も覚えている」と叫ばれました。また、教皇は、紛争当事者に向けて、私利私欲を捨てて、「互いに兄弟として認め合い、断固として、勇気をもって、出会いと対話の道を選び、行き場のない紛争を克服してください。」と呼び掛けられました。

 続けて、平和への嘆願が立ち上がり、全ての人の心に触れ、「紛争当事者たちが武器を置き、平和への願いに導かれますように」と祈られました。そして、 次のように宣言なさいました。

「このために、兄弟姉妹の皆さん、私は今週の 9 月 7 日、平和の女王マリアの誕生の祝日の前晩を、シリアと中東地域、全世界の平和のための断食と祈りの日として宣言することに決めました。また、諸キリスト教会の信者、諸宗教の信者、すべての善意の人々、一人ひとりにも、どのようなかたちであれ、この趣旨に参加していただくようにお招きします」

 まさに、祈りと断食によって、わたしたちは、全世界の至る所で様々な苦しみと困難に遭遇している人々と連帯し、かれらの苦しみにあずかることできるのです。

 なぜなら、50 年前、カトリック教会は、今日(こんにち)の全世界に向けて、次のような根本的な姿勢をすでに確認する必要があったからです。

「現代人の喜びと希望、悲しみと苦しみ、特に、貧しい人々とすべて苦しんでいる人々のものは、キリストの弟子たちの喜びと希望、悲しみと苦しみでもある。真に人間的な事柄で、キリストの弟子たちの心に反響を呼び起こさないものは何一つない。」(『現代世界憲章』序文)

 

 関心という大きな淵

  今日の福音は、貧しいいラザロのたとえによって、苦しんでいる人々に対して無関心あることへの強烈な戒めがそのテーマになっています。

 このたとえの最初の登場人物は、無名のある金持ちであります。

 「いつも紫の衣や柔らかい麻布を着て、毎日ぜいたくに遊び暮らしていた。」と、ルカは、この金持ちの生活を描写しています。とにかく、当時のユダヤ社会では、金持ちや王侯の着る衣は、紫の衣と柔らかい麻布と決まっていました。

 また、何もユダヤ社会だけでなくそれこそ洋の東西を問わず、金持ちは尊敬され、物乞いは軽蔑されるのが人の常です。ところが、このたとえに登場する金持ちには名前がなく、なんと貧乏人が、れっきとした名前を持っているのです。ラザロと言う名ですが、これは、ヘブライ語のエルアザルー神は助ける、の短くした名前です。ですから、彼は、死んでから「天使たちによって宴席にいるアブラハムのすぐそばに連れて行かれた。」のです。ここで、「アブラハムのすぐそばに」となっていますが、あえて直訳すると「アブラハムのふところへ」となり、二つの意味があります。つまり、信仰の父アブラハムの子として迎えられた、ということと、アブラハムの宴席で、まさに主客として招かれたということです。ちなみに、この宴会ですが、神の国の宴会が救いの完成の暁に行われることを、同じルカが次のように語っています。

「あなたがたは、アブラハム、イサク、ヤコブやすべての預言者たちが神の国に入っているのに、自分たちは外に投げ出されることになり、そこで泣きわめいて歯ぎしりする。そして人々は、東から西から、また南から北から来て、神の国の宴会の席に着く。」(ルカ13.28-29)

 では、この二人の登場人物つまり金持ちとラザロの決定的な運命の転換が、なぜ起こったのでしょうか。

 ルカは、アブラハムの口をとおして、次のように説明しています。

「子よ、思い出してみるがよい。お前は生きている間に良いものをもらっていたが、ラザロは反対に悪いものをもらっていた。そればかりか、わたしとお前たちの間には大きな淵があって、ここからお前たちの方へ渡ろうとしてもできないし、そこからわたしたちの方へ超えてくることもできない。」

  まず、この金持ちの生き方ですが、イエスの次のような警告を無視した重大な過ちであります。イエスは、忠告なさいました。

「『愚か者よ、今夜、お前の命は取り上げられる。お前が用意した物は、いったいだれのものになるのか』。・・・自分のために富を積んでも、神の前に豊かにならない者はこのとおりだ。・・・

 自分の持ち物を売り払って施しなさい。擦り切れることのない財布を作り、つきることのない富を天に積みなさい。・・・あなたがたの富のあるところに、あなたがたの心もある。」(ルカ 12.20-34)

 つまり、この金持ちは、蓄えた富を自分のためにだけ使って贅沢な生活をおくり、天には全く富を積んでいなかった、つまり、貧しい人々に心を配り、具体的な援助を何一つ実行しなかったという怠りの罪にほかなりません。

 そして、今日のたとえの中心的テーマですが、まさに、苦しんでいる貧しい人々に対する無関心の戒めではないでしょうか。

 とにかく、この金持ちは、自分の豪華な家の門前で、物乞いをしていた貧しいラザロを全く無視していたのではないですか。

 まさに、愛の反対は憎しみではなく、無関心ではないでしょうか。以前、聞いた話ですが、インドシナ戦争の最中、大勢の難民が、収容されている様子がテレビの報道番組で放映されていました。ところが、その番組を見ていた三歳になるお孫さんが、難民となった子どもたちのあまりにも憐れな姿にショックを受け、自分が食べていたおやつをテレビの方にむけて差出し、思わず、「これ、食べなさいよ」と叫んだそうです。そばにいた御爺ちゃんが、そのお孫さんのとった行動に感動し、決心したそうです。ご自分の老後のために蓄えておられた一千万円の大金をそっくり、匿名で、ただ一言、「孫の心より」とうメモを添えて難民救済のために献金したそうです。

 苦しんでいる方々への無関心という「大きな淵」を飛び越えて、日々、具体的な愛の実践に励むことができるように共に祈りたいと思います。