年間第 24 主日・C 年(2013.9.15)

「悔い改める一人の罪人のためには,もっと大きな喜びが天にある」

全能のゆえにすべての人を憐れむ

 旧約時代から新約時代に至るまで、聖書は一貫して神のあわれみを強調しています。

『旧約聖書続編』にある『知恵の書』では、次のようにあわれみの神を褒め称えています。

 「全能のゆえに、あなたはすべての人を憐れみ、回心させようとして、人々の罪を見過ごされる。

あなたは存在するものすべてを愛し、お造りなったものを何一つ嫌われない。

・・・

 あなたがお望みにならないのに存続し、あなたが呼び出されないのに存在するものが果たしてあるだろうか。命をいとおしまれる主よ、すべてはあなたのもの、あなたはすべてをいとおしまれる。」(11.23-26)

 ここで言われている、「回心させようとして、人々の罪を見過ごされる」ですが、回心して神のもとへ立ち帰ることができるのは、まず、神がすでに赦してくださったからにほかなりません。つまり、回心できるのは、神がわたしたちを罪のしがらみから解き放ち、ご自分の方へ引き寄せてくださるからです。この回心の体験は、イスラエルの救いの歴史に中で、絶えず繰り返されたのではないでしょうか。ですから、罪のために、捕囚時代を生きなければならなかったイスラエルの民は、すべての罪が赦され神に立ち帰ることによって、ようやく故国に帰ることができたのです。その回心の体験を、第二イザヤは、次のように語っています。

「思い起こせ、ヤコブよ

 イスラエルよ、あなたわたしの僕。

 わたしはあなたを形づくり、わたしの僕とした。

 イスラエルよ、わたしを忘れてはならない。

 わたしはあなたの背きを雲のように

罪を霧のように吹き払った。

わたしに立ち帰れ、わたしはあなたを贖った。」(イザヤ 44.21-22)

 

罪人を救うために世に来られたイエス・キリスト

 ですから、今日の第二朗読では、異邦人の使徒パウロが、自分が神のあわれみによって全面的に赦された体験を、見事に告白しています。

「以前、わたしは神を冒涜する者、迫害する者、暴力を振るう者でした。しかし、信じていないときに知らずに行ったことなので、憐れみを受けました。そして、わたしの主の恵みが、キリスト・イエスによる信仰と愛と共に、あふれるほど与えられました。『キリスト・イエスは、罪人を救うために世に来られた』という言葉は真実であり、そのまま受け入れるにあたいします」

 この神の救いの御計画が、実は、神の愛の計画であることを、ヨハネは、次のように強調しています。

「神は、独り子を世にお遣わしになりました。その方によってわたしたちが生きるようになるためです。ここに、神の愛がわたしたちの内に示されました。わたしたちが神を愛したのではなく、神がわたしたちを愛して、わたしたちの罪を償ういけにえとして、御子をお遣わしになりました。ここに愛があります。」(ヨハネ一、4.9-10)

 

罪人を招いて悔い改めさせるため

 ちなみに、ルカ福音書では、すでに 5 章で、徴税人のレビを弟子にしたことが、次のように語られています。

「その後、イエスは出て行って、レビという徴税人が収税所に座っているのを見て、『わたしに従いなさい』と言われた。彼は何もかも捨てて立ち上がり、イエスに従った。そして、自分の家でイエスのために盛大な宴会を催した。・・・ファリサイ派の人々やその派の律法学者たちはつぶやいて、イエスの弟子たちに言った。『なぜ、あなたたちは、徴税人や罪人などと一緒に飲んだり食べたりするのか』イエスはお答えになった。『医者を必要とするのは、健康な人ではなく病人である。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招いて悔い改めさせるためである。』」(ルカ 5.27-32)

 イエスの時代のユダヤ社会において、人民から税金を取り立てて、ローマ帝国に納めていた中間役人たちは、まさに、人々からは軽蔑され嫌われていて、罪人呼ばわりされていたのです。ところが、よりによって、この徴税人であるレビを、イエスは弟子になさったというのです。ですから、偽善者であったファリサイ派に人々からは、当然非難されたのです。

 とにかく、イエスは、はっきりと何のためにご自分がこの世に遣わされたのかを、宣言なさいました。「わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招いて悔い改めさせるためである。」

したがって、今日の福音の場面では、さらにこの罪人の回心が、神にとって大きな喜びになることを、二回にわたって強調しておられます。

「このように、悔い改める一人の罪人については、悔い改めの必要のない九十九人の正しい人についてよりも大きな喜びがある。」

 「このように、一人の罪人が悔い改めれば、神の天使たちの間に喜びがある。」

 そこで、ルカは、神から離れていた罪人を見出したときの神の喜びを二つのたとえを用いて描いています。

 ですから、「悔い改め」とは、失ったものを捜し回り、見つけ出す神に気づき、まさに神の喜びに触れる体験に他なりません。なぜなら、罪人が悔い改める前に、神が捜しておられるからです。

 わたしたち一人ひとりが、また、共同体として真の回心ができるように共に祈りたいと思います。