年間第 23 主日・C 年(2013.9.8)

「イエスの弟子となる果てしない道」

呼ばれていますいつも

 今日の福音は、まさにイエスの弟子となる条件を、極めて厳しい表現で呼び掛けておられる大切な場面です。

 ルカ福音書では、すでに 9 章で、イエスの弟子になるための覚悟について、イエスがエルサレムへ向かう道すがら語られたことが、次のように報告されています。

「一行が道を進んで行くと、イエスに対して、『あなたがおいでになる所なら、どこへでも従って参ります』と言う人がいた。イエスは言われた。『狐には穴があり、空の鳥には巣がある。だが、人の子には枕する所もない』

 そして別の人に、『わたしに従いなさい』と言われたが、その人は、『主よ、まず、父を葬りに行かせてください』と言った。イエスは言われた。『死んでいる者たちに、自分たちの死者を葬らせなさい。あなたは行って、神の国を言い広めなさい。』また、別の人も言った。『主よ、あなたに従います。しかし、まず家族にいとまごいに行かせてください。』イエスはその人に、『鋤に手をかけてからうしろを顧みる者は、神の国にふさわしくない』と言われた。」(ルカ 9.57-62)

 イエスの弟子になるとは、自分をしばりつけているあらゆるしがらみから自由になって、ひたすらイエスに従う生き方を選ぶことにほかなりません。ですから、まさに生涯かけてこの弟子の道を全うする果てしない道を歩み始めることではないでしょうか。

そのために、このイエスに従う新しい生き方が、すべてを失っても決して悔いを残さないという確信がなければ、一歩も前に進めないと思います。

 パウロは、イエスに徹底して従う道を、すべてを捨ててひたすら目標を目指して走り続けるイメージで雄弁に語っています。

 「しかし、わたしにとって有利であったこれらのことを、キリストのゆえに損失と見なすようになったのです。そればかりか、わたしの主キリスト・イエスを知ることのすばらしさに、今では他たの一切を損失と見ています。キリストのゆえに、わたしはすべてを失いましたが、それらを塵芥と見なしています。キリストを得、キリストの内にいる者と認められるためです。・・・わたしは、キリストとその復活に力を知り、その苦しみにあずかって、その死の姿にあやかりながら、何とかして死者の中からの復活に達したいのです。・・・なすべきことはただ一つ、後ろのものを忘れ、前のものに全身を向けつつ、・・・お与えになる賞を得るために、目標を目指してひたすら走ることです。」(フィリピ 3.7-14)

 実は、パウロのこのような心境に達するためには、まず何よりもイエスにしっかりとつながっていなければなりません。ですから、弟子たちと決定的な分かれを告げる告別説教で、イエスは次の様に切々と語られました。

「わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。人がわたしにつながっており、わたしもその人につながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ。わたしを離れては、あなたがたは何もできないからである。・・・あなたがたがわたしにつながっており、わたしのことばがあなたがたの内にいつもあるならば、望むものを何でも願いなさい。そうすればかなえられる。あなたがたが豊かな実を結び、わたしの弟子になるなら、それによってわたしの父は栄光をお受けになる。」(ヨハネ 15.5-8)

 もし、わたしたちがイエスの望まれるような弟子に成長できるなら、それは天の御父に栄光を帰すことになると言うのです。

 

イエスの弟子の条件

 今日の福音の場面に戻りますが、エルサレムを目指して十字架上での最期を意識した旅の道すがらの出来事を伝えています。死を覚悟してひたすら旅を続けておられたイエスには、弟子たちだけでなく恐らく大勢の群衆もついて来ていたのです。とにかく、イエスには、それだけ人々を引きつける素晴らし魅力にあふれていたからではないでしょうか。勿論、この群衆の中には、単なる好奇心でイエスの後を追いかけていた人たちも大勢いたと思われます。ですから、イエスは、極めて厳しいお言葉で、イエスの弟子となる条件を単刀直入に語られたのです。まず、肉親との血の通った絆と、イエスとの弟子としての結びつきを比較なさいます。

「もし、だれかがわたしのもとに来るとしても、父、母、妻、子ども、兄弟、姉妹を、更に自分の命であろうとも、これを憎まないなら、わたしの弟子ではありえない」

  ここで、「憎む」という極端な表現が使われていますが、まさに、イエスとの絆を、血でつながっている絆より優先させるということではないでしょうか。したがって、自分を「憎む」とは、自分を捨てることにほかなりません。ですから、イエスは、宣言なさいました。

 「わたしの後に従いたい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。」(マルコ 8.34)

  とにかく、イエスに従うこと、つまり、徹底してイエスに服従するとは、まず、イエスにしっかりと結びつくことにほかなりません。そして、必然的に自分の十字架を通してイエスの十字架の許に立たされるのではないでしょうか。けれども、これは、あくまでも自分から進んで選ぶ道であります。しかも、度々、この自分の自由な選択の更新が必要なのです。つまり、知らず知らずのうちに、このイエスへの服従が本来の道からそれてしまう弱さを抱えているからです。

 ですから、「自分を捨てる」ということは、ひたすらキリストを見つめて、我を忘れてしまうことにほかなりません。パウロの表現では、「後ろのものを忘れ、前のものに全身を向けつつ、・・・目標を目指してひたすら走る」となります。

 

腰をすえて考える

 最後に、イエスは、今日の福音で二つのたとえを語られ、「まず腰をすえて」を強調なさいます。

 つまり、例えば塔を建てるのに必要な準備は、たくさんありますが、一旦はそれをすべて脇に捨て置き、「まず腰をすえる」ことが必要なのです。同じように、戦争を始めるためには、様々な準備が必要ですが、それらを脇に置いて、「ます腰をすえる」ことから始めなければならないのです。つまり、落ち着いて自分のイエスに生涯かけて従い切ることを、真剣に思い巡らし、決断を更新すべきなのです。なぜなら、イエスに忠実に従うためには、最終的には一切捨てなければならないからです。けれとも、それが出来るのは、イエスにしっかりと結ばれた時にほかなりません。

 わたしたち一人ひとりが、そして共同体としてどこまでイエスに忠実に従っているのか、まさに、謙虚に振り返り、信仰の生き方の再確認ができるように共に祈りたいと思います。