年間第 22 主日・C 年(2013.9.1)

「主はへりくだる人によって、あがめられる」

自らへりくだれ

 今日の第一朗読は、『旧約聖書続編』の中にある、『シラ書』(『集会の書』)からとられていますが、この書物は、「シラの子、エルサレムに住むイエスス」によって紀元前 190年頃にまずヘブライ語で書かれ、次いで、孫の手でギリシャ語に翻訳されました。

 内容は、自然や世界の出来事を人間の理性だけで探求しようとするギリシャ・ローマ文化が、イスラエルの伝統的な信仰を生きていたユダヤ人社会にもひしひしと押し寄せる時代に、シラの子イエススは、先祖から受け継いだ信仰に基づくものの味方、価値観の大切さを強調しています。ですから、『箴言』『ヨブ記』、『知恵の書』と共に「知恵文学」に属します。

 そこで、今日の箇所ですが、先ず、「何事をなすにしても柔和であれ。」と勧めています。

 また、別な訳では、「柔和をもって、お前の仕事を果たせ。そうすれば、お前は、神に喜ばれる人に愛される。」(フランシスコ訳)となっています。ですから、まさにわたしたちが働くときにこそ柔和を示せというのです。

 そして、イエスご自身も、「わたしの心は、柔和で、謙遜であるから、わたしの 軛を受け入れ、わたしに学びなさい。」(マタイ 11.29)と、優しく呼び掛けておられます。

 つまり、わたしたちキリスト者が、最初にイエスから学ぶべきことは、柔和さを身に着けることなのです。

 では、一体どのようにしたら、この柔和を、イエスから学ぶことができるのでしょうか。

 実は、イエスは、「柔和で、謙遜であるから」と言われました。ですから、柔和と謙遜は、同時に学ぶべきなのです。

 したがって、シラの子イエススも、次のように勧めています。

「偉くなればなるほど、自らへりくだれ、」と。別な訳は、「身を低くせよ。」(フランシスコ訳)となっています。

 ちなみに、イエスは、誰がいちばん偉いのかと論じ合っていた弟子たちに対して極めて大切なことを、次のように強調なさっておられます。

「第一の者になろうと望む者は、いちばん後の者となり、また、みなに仕える者とならなければならない。」(マルコ 9.35)

  また、ゼベダイの子ヤコブとヨハネが、イエスに「あなたが栄光をお受けになるとき、どうかわたしたちの一人をあなたの右に、一人を左に座らせてください。」(同上 10.37)と、願った時に、はっきりと次のように断言なさいました。

「あなたがたも知っているとおり、異邦人の間では、支配者と目される者がその民を支配し、また偉い人が権力をふるっている。しかし、あなた方の間では、そうであってはならない。あなたがたのうちで偉くなりたいものは、かえってみなに仕える者となり、また、あなたがたのうちで第一の者になりたい者は、みなの僕となりなさい。人の子が来たのは、仕えられるためではなく、仕えるためであり、また、多くの人の贖いとして、自分の命を与えるためである。」(同上 10.35-45)

  続いて、シラの子イエススは、語ります。

 「主の威光は壮大。主はへりくだる人によってあがめられる。」

 わたしたちが、柔和になり、へりくだることができるのは、結局、神の栄光の偉大さに打ちのめされるからにほかなりません。つまり、柔和謙遜になるために、神の栄光のすばらしさに圧倒されるという体験が必要なのです。

 そう言えば、ペトロがイエスのおことばの威力を目の当りにしたとき、自分の罪深さにも気づかされました。ですから、イエスは、謙虚にイエスの前にひれ伏しました。

「シモンは答えた、『先生、わたしたちは夜通し働きましたが、何もとれませんでした。しかし、おことばですから、網を下してみましょう。』そして、その通りにすると、おびただしい 魚が掛かり、網が裂けそうになった。・・・これを見たシモン・ペトロは、イエスの足もとにひれ伏して言った、『主よ、わたしから離れてください。わたしは罪深い者です』」(ルカ 5.5-8)

 さらに、シラの子イエススは、強調しています。

 「主は、へりくだる人によってあがめられる。」と。

 ちなみに、ここで言われている「あがめる」という言葉ですが、「神に栄光を帰す」ことを意味しています。つまり、栄光の出所でどころは、あくまで、神御自身にあると悟ったので、神に栄光を帰し、あがめるのです。それに対して、「高慢な者」とは、「自分で自分に栄光を帰する人」と言えましょう。

 ちなみに、神に栄光を帰すというのは、まさに典礼の本質です。ですから、わたしたちがこの地上で行う典礼は、まさに天上の典礼に直接つながっているので、神の栄光が最大限に輝いている典礼をこの地上で写しだすことができるのではないでしょうか。このことを、『カトリック教会のカテキズム』は、次のように説明しています。

「地上の典礼において、わたしたちは天上の典礼を前もって味わい、これに参加しています。この天上の典礼は、旅するわたしたちが目指す聖なる都、エルサレムにおいて行われており、そこにはキリストが、至し聖所と真の幕屋の祭司として、神の右に座しておられます。わたしたちは、天の大群とともに、主の栄光の賛歌を歌い、諸聖人の記念を尊敬して、彼らの交わりにあずかることを望み、われらのいのちである主が現れ、わたしたちも主とともに栄光のうちに現われるときまで、救い主、わたしたちの主イエス・キリストが来られるのを待ち望むのです。」(1137-1139)

 

だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる

  最後に、きょうの福音で、イエスは、 真(まこと)の謙遜について神との関係においてはっきりと語っておられます。つまり、「だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる。」と。

 まず、このおことばを、直訳するなら次のようになります。

「自分自身を高くする者は、だれでも低くされるだろうし、自分自身を低くする者は、高くされるだろう」

 さらに説明を加えるなら、次のようになります。

 「自分自身を高くする者は、神が低くするだろうし、自分自身を低くする者は、神が高くするだろう。」まさに、人間の行動と、神の応答とか正反対であることを強調しているおことばにほかなりません。

「わたしの心は、柔和で、謙遜であるから、わたしに学びなさい。」

 このおことばを、心に留め、日々の働きと生活の中で、イエスに学ぶことができるように共に祈りたいと思います。