年間第 21 主日・C 年(2013.8.25)

「狭き門から入るように競うべき」

狭い門から入れ

 今日の福音朗読箇所は、ルカ福音書からとられていますが、マタイ福音書にも同じような内容が数か所にあります。

 ルカの「狭い戸口から入るように努めなさい。言っておくが、入ろうとても入れない人が多いのだ。」に該当する箇所として、マタイの方では「狭い門から入りなさい。滅びに至る門は広く、その道は広々としていて、そこから入る人は多い。しかし、命に至る門はなんと狭く、その道は細いことか、そして、それを見出す人は少ない。」(マタイ 7.13-14)となっています。

 ルカの「家の主人が立ち上がって、戸を閉めてしまってからでは、あなたがたが外で戸をたたき、『ご主人さま、開けてください』といっても、『お前たちがどこの者か知らない』という答えが返ってくるだけである。」に該当するマタイの方は、「わたしに向かって、『主よ、主よ』と言う者がみな、天の国に入るのではない。天におられるわたしの父のみ旨を行う者だけが入るのである。その日には、多くの者がわたしに言うだろう、『主よ、主よ、わたしは、あなたの名によって預言し、あなたの名によって多くの奇跡を行ったではありませんか』。その時、わたしは彼らにはっきりと言おう、『わたしはお前たちを全然しらない。悪を行う者ども、わたしから離れ去れ。』(マタイ 7.21-23)と大変厳しい口調になっています。

 では、主ご自身は、一体わたしたちに何を要求なさっておられるのでしょうか。つまり、わたしたちの信仰の生き方について、何を求めておられるのでしょうか。

 そのことを明らかにするには、まず、旧約聖書に戻ってみることです。

 実は、モーセが、あたかも遺言のように、イスラエルの人々に向かって切々と訴えた説教を、次のように伝えている箇所があります。

 「イスラエルよ、聞け。わたしたちの神、主こそ、唯一の主である。心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くして、あなたたちの神、主を愛しなさい。今日、わたしがあなたがたに命じるこれらのことばを心に留め、子どもたちにそれらを繰り返し教え、あなたが家に座っている時も道を歩く時も、寝ている時も起きている時も、このことばを語り聞かせなさい。これを徴(しるし)として手に結び、記念として 額につけなさい。それをあなたの家の戸口の柱と門に書き記しなさい。」(申命記 6.4-9)

 つまり、信仰を生きるとは、まさに日々の生活のただ中で、忠実に神に仕えること、つまり、神の掟に徹底して従うということに尽きるのです。しかも、それは、まず家庭において実行することなのです。

 以前、『家庭で育てられる信仰』についてアンケートをまとめ小冊子が印刷されました。その一部を紹介したいと思います。

 まず、「神さまが大事だ」ということをどのように伝えていますか。という問いに対して、

 いつ・いつも。道を歩いている時、ご飯を食べている時、日常生活の中で、床に就く前、教で、幼稚園に着いた時・ことある毎に、または週一回ぐらい夕食の後に・日々の生活の何気ない会話や行動の中で自然に、また、子どもの発言に対して、その発言を少し大きく膨らませるようにして・何か困ったこと、悲しいこと、失敗などがあった時、または病気の時

どこで・場所はどこでも。散歩の途中美しい花を見た時、就寝前絵本の中で・・・。

・場所は問わず、子どもたちと話せる雰囲気の状況で。

誰が

・保護者また信者の大人が一体となって実行する・両親、祖父母・決まって祈りをするので子どもが先に祈りたがります。その後、親の私が付け足して祈ります。

どのように

・いろいろな決断、選択にあたっての基準は損得と好き嫌いではなく、神さまがお喜びになることを考えてするようにしています。

・家族全員で祈る(夜)。(子どもたちが社会人になるまで)

・普段の話の中で相談にのるかたちで、諭すやりかで。また、絵本・テキストを使って。

・すべてのものを神さまが造り、善いことをすれば神さまもお喜びになるし、神さま=善いこと=大切なもの、というように。

・今、自分たちが存在してるのは神さまの恵みによるものであること、神さまがわたしたち一人ひとりを愛しでくださっていることを教えて、私たちもいつも心を神さまに向けて、神さまに喜んでいただけるようにどんな人にも優しくしていくことが、神さまを大事にすることと同じ。

 ところで、今日の福音の後半に、「神の国に入る」、「神の国で宴会の席に着く」という大切な箇所があります。実は、この神の国というキーワードは、イエスの説教の中でも頻繁に使われたことばであります。

 たとえば、マルコ福音書の最初の箇所で、イエスは、神の福音を次のように宣べ伝えています。

 「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい。」(1.15)

 つまり、神の救いの歴史は、いよいよ最高潮に達し、神の愛と慈しみによる支配が始まったというのです。ですから、自分中心の生き方を根本的に切り替えて、神を中心とした生き方を始めなさいというイエスの叫びに他なりません。

 また、ルカ福音書では、神の国はいつ来るのかという問いに対して、イエスは、単刀直入にお答えになりました。

「神の国は、目に見える形で来るのではない。また、『見なさい、ここに』とか、『あそこに』とか言えるものでもない。神の国は、実にあなた方の間にあるのだから。」(17.20-21)

 神の国は、場所に限定されない、まさにわたしたちお互いの密接な関わりのただ中に実現する神の支配にほななりません。

 さらに、マタイは、神の国(天の国)の力強い成長ぶりを、たとえで語っています。「天の国は、一粒の芥子種に似ている。ある人がそれを取って畑に蒔いた。それはどんな種よりも小さいが、成長すると、どんな野菜よりも大きくなり、そして、空の鳥が来て、その枝に巣を作るほどの木になる。」(13.31-32)

 全身全霊を尽くして神を愛し、隣人を愛することによって、神の国を受け継ぐことができるように、共に祈りたいと思います。