年間第 20 主日・C 年(2013.8.18)

「地上に火を投じるために来た」

エルサレムへの旅の途上で

 今日の福音朗読は、ルカ福音においては、世の終わりと救いの完成つまり、終末を視野に入れた黙示文学的な箇所と考えられます。因みに、聖書における黙示文学というのは、本来、終末の神の勝利に対する希望をもたらす励ましの内容になっております。ですから、今日の福音朗読箇所も、救いの完成に至るイエスの励ましのおことばとして受け止めることができます。

 そこで、イエスは唐突に弟子たちに向かって宣言したのです。

 「わたしが来たのは、地上に火を投ずるためである」

 黙示文学には、よく火が登場します。例えば、ヨハネの黙示録に次のようなくだりがあります。

 「それから、御使いは、香炉を取り、祭壇の火をこれに満たして、地上に投げつけた。すると、雷鳴と轟音と稲妻と地震が起こった。」

 また、ルカ福音においてもすでに最初のところで、洗礼者ヨハネがイエスの到来を、次のように物々しく描いております。

「わたしは水で洗礼を授けるが、わたしよりも力のある方が来られる。・・・その方は、聖霊と火で、あなた方に洗礼をお授けになる。その方は、手に箕を持ち、麦打ち場の麦をふるい分け、麦を倉に納め、籾殻もみがらを消えることのない火で焼き尽くされる」(3.16-17)

 また、ルカの福音においては、イエスは、旧約時代の預言者エリアの終末における再来であるという文脈があることを、念頭に置くべきと思います。とにかく、洗礼者ヨハネは、来るべき方が、聖霊と火によってすべて清くないものを絶滅させ、純粋な共同体が創設されることを期待していたようです。

 イエスは、続けて極めて重大な宣言をなさいます。

「わたしには受けなければならない洗礼がる。それが終わるまで、わたしはどんなに苦しむことだろう」

 ここで言われている「洗礼」とは、人間に降り注ぐ火や波のような苦しみや艱難を表す言葉で、イエスの受難を暗示していると言えましょう。とにかく、原始教会では、「洗礼」で表されたイエスの受難が、洗礼によって清められる人々のために代理として神から受けたものと信じていたようです。勿論、火を燃やし洗礼を終わらせ完成させるのは、神ご自身にほかなりません。

 ルカによれば、マリアを中心にしてエルサレムに集まっていた弟子たちに聖霊が降(くだ)ったは、五旬祭の当日であります。そこでも、火が登場します。

「その時、突然、天から激しい風が吹いてくるような音が起こり、彼らが座っていた家全体に響き渡り、炎のような舌が分かれ分かれに現われ、一人ひとりの上に留まった。すると、みなは聖霊に満たされ、霊が語らせるままに、他国のさまざまな言葉で語り始めた。」(使徒言行 12.2-4)

 次に、イエスは、突然、日ごろのおことばとは相容れない様な発言をなさいました。

「あなたがたは、わたしが地上に平和をもたらすために来たと思いうのか。そうではない。言っておくが、むしろ分裂だ」

とにかく、イエスによって燃やされる火も、また、イエスの受難死という洗礼も、イエスの前でわたしたちの決断を求めます。つまり、どっちつかずの中立はあり得ないと言うのです。

 つまり、イエスを拒否する人には、イエスの火はまさに裁きの火、受け入れる人には清めの火となるのです。

 ですから、イエスは、見せかけの平和ではなくむしろ分裂をもたらすのです。つまり、イエスのことばを受け入れないならば、結局、神との分裂をさらけ出すことになるのです。しかも、この神との分裂は、人間同士の分裂をももたらしてしまいます。

 さらに、この分裂は、家族間の分裂にまで及んでしまいます。なぜなら、家族の一人ひとりが神から離れて自分勝手に生きようしているなら、そこにすでに潜んでいた根本的な分裂が噴き出たと言えるからです。

 

キリストこそわたしたちの平和

 そこで、パウロは、イエスが、ご自分の十字架上での受難と死によってわたしたちの分裂を崩し、まことの和解と一致へと導いてくださることを、パウロは、次のように強調しておられます。

「実に、キリスト自身こそ、わたしたちの平和であり、互いに離れていた二つのものを一つにし、ご自分の肉において、人を隔てていた壁、すなわち敵意を取り除き、・・・二つのものをご自分に結びつけることによって、一人の新しい人に造り上げ、平和を実現されました。キリストは十字架によって、互いに離れていた二つのものを一つの体とし、神と和解させてくださいました。・・実に、キリストを通してわたしたち両者は、一つの霊によって御父のもとへ近づくのです。」(エフェソ 2.14-18)

 

教会こそ神と人類との一致のしるしであり道具である

  ところで、イエスが弟子たちと決定的に分かれる直前に、最も大切な新しい掟を与えてくださいました。

「わたしは新しい掟をあなた方に与える。

 互いに愛し合いなさい。

 わたしがあなたがたを愛したように、

 あなた方も互いに愛し合いなさい。

 互いに愛し合うなら、

 それによって人はみな、

 あなたがたがわたしの弟子であることを、

 認めるようになる。」(ヨハネ 13.34-35)。

したがって、教会の根本的刷新を目指した第二ヴァティカン公会議は、教会の本来的使命を、

初めて次のように宣言することができたのです。

「教会は、キリストにおけるいわば秘跡、すなわち神との親蜜な交わりと全人類一致のしるしであり道具であるから、・・・自分の本性と普遍的使命とを、その信者と全世界とに、より明かに示そうとする。

 現代の状況は、教会のこの義務をいっそう緊急なものとしている。それは社会・技術・

 文化に種々のきずなによって今日(こんにち)、より強く結ばれているすべての人々が、キリストにおける完全な一致をも実現すべきだからである。」(『教会憲章』序文)