年間第 17 主日・C 年(2013.7.28)

「わたしたちにも祈りを教えてください」

 今日、弟子たちと共に、改めてイエスにお願いしたいです。

主よ、わたしたちにも祈りを教えてください」と。

 実は、今日の福音が教える「主の祈り」は、マタイ福音書にも平行箇所があります。ですから、これら両方を比べながら、イエスが実際の教えてくださった祈りの内容と方法を、ご一緒にしっかりと学びたいと思います。

 わたしたちが「主の祈り」として、唱えているのは、マタイのテキストに基づいて日本の司教協議会で決めた内容であります。専門的なことを付け加えるなら、実際に、イエスが弟子たちに教えてくださったものをもとに、祈りの内容は、今日の福音朗読箇所にあるルカが伝えていると言えましょう。

 まず、「父よ」という天の御父への呼び掛けで始まります。つまり、わたしたちの祈りは、周りの人に聞かせるのではなく、飽く迄も、神に向かって語りかける魂の叫びにほかなりません。ですから、イエスが、ゲッセマネで苦しみが最高潮に達したとき、思わず「アッバ、父よ」(マルコ 14.36)と、あたかも幼子が自分の父親を全面的に信頼し切って呼び掛けるように叫んだのです。

 したがって、祈るときの心の姿勢は、天の御父に対する確固たる信頼であります。

 マタイは、当時のユダヤ教の教師たちに倣って「天におられるわたしたちの父よ」(マタイ 6.9)とかなり改まった言い方にしています。

 次に、「御名が崇められますように」と続きます。これも、神のための祈りであって神の名があらゆるところで崇められますようにという願いにほかなりません。

 そして、「御国がきますように」と懇願します。つまり、神の愛と慈しみによる支配が、現実のただ中で実現しますようにという切なる願いです。ですから、まさに、神による救いの完成を祈るのです。なぜなら、救いの実現によって、結果的に神の名が聖なるものであることが示され、それを見てすべての人々は、御名を崇めるようになるからです。ちなみに、この「御国」ですが、新約聖書では、「神の国」(マタイは「天の国」と言い換えている)という大切なキーワードの一つです。しかも、特にマタイ福音書では、すべて譬えによって説明されていることばであります。その一例をあげるなら、マタイ福音書に、次のような箇所があります。

「天の国は、パン種に似ている。女がそれを取って、三サトンの小麦粉の中に混ぜると、やがて全体が発酵する。」(同上 13.33)。

「天の国は、畑に隠された宝に似ている。それを見つけると人はそれをそのまま隠しておき、喜びのあまり、行って自分の持ち物をことごとく売り払い、その畑を買う」(同上13.44)

 

わたしたちのために

 続いて、「主の祈り」には、「わたしたち」のための祈りが三つ重ねられています。

 まず、「わたしたちのために必要な糧を毎日与えてください。」と、特に日々の食物に欠乏している大勢の飢えている方々に思いを馳せながら祈ります。

 今日の世界の貧しい国々では、特に五歳以下の子どもたちが一時間に 2 千人以上が餓死している深刻な食糧問題を抱えています。

 次に、「わたしたちの罪を赦してください、」と、自分の罪の赦しだけでなく、まさに連帯責任で「わたしたちの罪の赦し」を、願うのです。マタイのほうでは、「負い目」となっていますが、元の表現と考えられます。これは、多くの場合、経済的な意味での責務を意味しているようですが、道徳上の負い目をも含む言い方です。

 ですから、「わたしたちも自分に負い目のある人を皆赦しますから。」を、いわば条件にするのです。この箇所は、わたしたちの「主の祈り」では、「わたしたちの罪をおゆるしください。わたしたちも人をゆるします。」と、一般的な表現にしています。

 そして、最後の願いは、「わたしたちを誘惑に遭わせないでください。」となっています。

 マタイのほうは、「わたしたちを誘惑に陥らないように導き、悪からお救いください」となっています。

 

救いの歴史における祈り

 ここで、旧約時代から新約時代にまで続いている救いの歴史における祈りを、紹介したいと思います。先ず、旧約聖書にある最後の士師であったサムエルの母親が、やっとサムエルを授かったときの賛歌の次のような祈りであります。

「わたしの心は、主にあって喜び、

 わたしの角は主によって高く上げられます。

・・・

 主のように聖なる者はなく、

 誰もあなたに並ぶ者はいません。

 わたしの神は、揺るがぬ岩。

 ・・・

 勇士の弓は折れ

 か弱い者は力を帯びます。

 食べ飽きている者は、パンのために雇わ

飢えている者は再び飢えることがない。

 ・・・

 主は命を絶ち、また命を与え

 陰府に下し、また引き上げてくださる ・・・」(サムエル記上 2.1)

 この祈りの伝統を、乙女マリアはしっかりと受け継ぎ、エリザベトを訪問したとき次のような賛歌をささげました。このマリアの賛歌は、『教会の祈り』の晩の祈りで、毎日唱えます。

 「わたしは、神をあがめ、わたしの心は、神の救いに喜びおどる。

 神は卑しいはしためを顧みられ、いつの代の人も わたしをしあわせな者と呼ぶ。神はわたしに偉大なわざを行われた。その名は とおとく、あわれみは代々、神をおそれる敬う人の上に、神は その力を現し、思いあがる者を打ち砕き、権力をふるう者を その座からおろし、見捨てられた人を高められる。飢えに苦しむ人は よいもので満たされ、おごり暮らす者は むなしくなって帰る。神は いつくしみを忘れることなく、 僕(しもべ)イスラエルを助けられた。わたしたちの祖先、アブラハムと その子孫の約束されたように。栄光は、父と子と聖霊に、初めのように 今も いつも 世々に。アーメン。」(ルカ 1.47-55 参照)